ハンナ・アーレント
マルガレーテ・フォン・トロッタ監督、ドイツ、2012、at シネマチュプキたばたにて
2932冊目
最近、「100分で名著」で、アーレントの『全体主義の起源』が紹介された。
http://ericweblog.exblog.jp/237769063/
世界観を示してくれる政党になびく。それが全体主義。Totalitarianism.
『ミドルクラスの孤独』が広がり、自らを保てない人々はすがるものを求める。孤独に「耐えられない」からだ。
ハイデガーの弟子であるアーレントは「思考」することとは何かを追究する。そして、アイヒマンをイスラエルでの裁判で傍聴し、その肉声を聞き、論理を追って、「理解」する。
裁判長はアイヒマンに「良心の痛みはなかったのか」と尋ねる。
アイヒマンは、「義務と良心の間でいつも揺れていた」と言う。
そのような尋問も含めて、アーレントは言う。
アイヒマンは「思考」していなかったのだと。
アイヒマンほど合理的に思考して、合理的に大量殺人システムを動かす方法を構築した人はいないのに、彼女は、彼は「思考停止」していたというのだ。
アーレントの言う思考とは善悪を求める思考なのだ。合理的に「ユダヤ人大量殺戮」を実行するためのシステム思考ではない。
彼女はそのようにアイヒマンを理解し、その上で、と言うか、だからこそ、彼が「思考停止」していたと言う。
ハイデガーは「思考」は知識を生まないと言う。しかし、人間は「思考する存在」だと言う。思考と生が不可分であることをハイデガーは言ったのだ。
しかし、ハイデガーはヒトラーを賞賛し、そのことはユダヤ人であるアーレントを失望させた。
思考が生と不可分であると言うことどう言うことか。
思考が「人間」につながっていなければならないことだと、アーレントは解釈し、そして、それは「善悪」なのだと言うのだ。
さらに、アーレントは、アイヒマンはそのような「人間」についての判断や考慮を、自分の思考の中から省いたことを指摘する。
しかし、同時に、アーレントは、ユダヤ人指導者たちもアイヒマンの「大量殺戮システム」に加担した人々であると弾劾する。
そのことがユダヤ人コミュニティに大きな波紋をもたらす。
アーレントは「理解」と「赦し」は違うと主張するが、米国及びイスラエルのユダヤ人社会には、その主張は受け入れられなかった。
アイヒマンのシステムはユダヤ人社会の盲従なしでは成立しなかった。ユダヤ人の指導者たちに導かれた社会はどんな社会であったのか。
義務と良心はそこにあったのか。
アイヒマンを問う同じ問う刀で、アーレントは問う。
アイヒマンを一方的に断罪したかったユダヤ人コミュニティは激怒し、アーレントを弾劾する。
夫に、「このような結果になったとしても、あの記事を書いたかね」と尋ねられた彼女は言う。「ええ、でも友人は選んだわね」と。
ドイツとユダヤ人は、共犯関係にあったのだと、この映画を見て思った。
日本では、中央と地方は共犯関係にある。
ナチスの手口ではなく、同一民族の中での共犯関係は、さらに達成しやすいことだろう。
歴史の流れは変わらない。しかし、過去が足を引っ張ることはある。
これからの4年間、わたしは何を見るのだろうか。
アーレントは言ったのだ。善悪を見極めるために思考する以外、思考することに意味はない、と。それがわたしがこの映画から受け取ったメッセージだ。
■悪の凡庸さ The Banality of The Evil
http://ericweblog.exblog.jp/11702254/