アニメで読む世界史
藤川隆男編著、山川出版社、2011
2920冊目
昨日は、日本女子大学で行われたミーガン・マーシャルさんと伊藤淑子さんのレクチャーを聞きに出かけた。ピューリッツア賞を受賞しているというマーシャルさんだが、その本はまだ翻訳されていない。
日本は世界最大の翻訳出版国であるが、原語と分野について偏りがあることは否めないだろう。
マーシャルさんの話を聞きながら、伝記とはなんだろうかと考えた。
そこではたと膝を打ったのが、この本だった。
この本は、原著とアニメのずれに焦点を当てているために、著者の意図や創作の背景、そしてアニメ作家の意図と背景、しかもそこにある時代のずれにも言及している。
伝記作家が、異なる時代に生きた人物を描写し、紹介する。伝記に取り上げられる人物は、なんらか表現者であったり、時代や社会に影響を与えた人物であることが多い。そこに「描写」の重層性が生まれる。
わたし自身がこどもの頃に読んだ『小公子』や『小公女』の物語について、はたと膝を打ったのは大人になってから。金持ちだった貴族の子供が、親という後ろ盾をなくした途端、零落するが、親戚あるいは知り合いの金持ちがあわられて再び金持ちになるというストーリーだ。
その金持ちというのが「東インド会社」や、ロスチャイルド家の保険などの投資に関わっていたのだということに、気づいたのが大人になってから。
桁違いの金を彼らが手にすることができたことが、よくわかる。
この本では『小公女』について、あの寄宿学校はなんだったのか?も描かれています。イギリスで海外での投資や活動が増えて、結婚相手がいなくなってしまった中流階級の女たちの身過ぎ世過ぎ、口過ぎの手段が「家政婦」や「学校経営」だったのだと。125
インドで生まれて、母国イギリスよりはるかに良い暮らしをしていたセーラ。イギリスの寄宿学校に預けられるのだが、そこの校長は独身女の守銭奴という構図の背景は、そんなことなのだ。
『フランダースの犬』は、原著の舞台であるフランドル地域では絶対放送されたことがない。プロテスタントとカソリックという宗教対立のゆえにオランダから独立したベルギーが抱える背景が不正確というか、描き方に不満があるというところか。
イギリス人が垣間見た状況からの物語。 物語られ方が嫌だ、なんてことはいくらもありそうだ。
貧しいネロは、あの時代、有名な画家にはなれなかっただろうと、第二章の著者、頼順子さんは言います。
アニメはどことなく人道主義的で、今の時代にあった夢がある描き方をしていますが、評論者たちは身もふたもないですね。
『母を尋ねて三千里』ではヨーロッパからアルゼンチンへの移民が描かれていますし、『ハイジ』では山国スイスの様々な国や地域との繋がりが描かれています。
これらのアニメを通して、19世紀のヨーロッパが、世界との繋がりの中で、多民族国家を束ね、また独立し、EUという統合を模索してきた背景が、本当によくわかるんだなあという、感動の一冊です。
また、『トム・ソーヤの冒険』では、あったはずの奴隷制度の葛藤、そして決して自由な存在などではなかった先住民のことが指摘されています。
ナチスドイツを逃れてアメリカに渡った『トラップ一家』のその後も、米国で展開する物語です。
アニメという、子どもを対象にした切り取り方だからこそ見えてくるものがある。それはどういう違いなのだろうかと、昨今、宮崎駿さんの次回作のタイトルは『君たちはどう生きるか』。吉野源三郎さんの原著を使うのかどうかはわからないけれど、楽しみであるね。
■昨日の資料より