江戸・明治 百姓たちの山争い裁判
渡辺尚志、草思社、2017
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林野は村の人々のエネルギー源であり、食糧源であり、肥料源であり、生活に不可欠なものであった。時には田の所有と一体的に扱われていた事例もあるという。25
そして、林野の多くは共有地であった。そのために利用のルールが共有され、罰則も決められていた。一つの村田の入会を村中入会、複数の村々による入会を村々入会と呼ぶ。
ルールには「期間制限」「用具の制限」「一日の再狩猟制限」などがある。27
後述される事例の山口村は、所有権の主張において「留山」という区分を入れており、それは普段の入会では入山を禁止しており、飢饉の際に材を売って換金し、必要な食糧を購入するのに当てたりなど、緊急、村の臨時支出などが必要な際に活用する入会地があることが示されている。(第4章)
18-19世紀の平均的な村は、石高400-500石、耕地面積50町前後、人口400人。
全国に6万3276村、現在の市町村には37村程度が含まれている。33
町は約100m平方。=1ha。一畝が10m平方で1a。10石強30俵(60kg/俵)
一反一石。
百姓とは、土地を所有して自立した経営を営み、年貢などを負担し、村からも認められた身分呼称のこと。39
家を単位とした土地や財産を子孫に残していくことが、責任。41
村は行政組織であるともに自治組織。村方三役。名主、組頭、百姓代44
村同士の争いは、藩に訴えて出ることに、江戸時代にはなっていた。
第3章は江戸時代の山村の暮らしぶりと境界争いについての紹介。
そこに明治の地租改正があり、境界線を確定する必要が生まれ、訴訟は対国の裁判へと移っていく。
その実相が第4章で紹介されている現在の山形県内、山口村と田麦野村の争いである。192
江戸時代などについて本を読むときの基本資料として読んでおくと、実態が分かりやすくなるのではないかと思うほどに、現代の村社会から遠のいた人々の視点から分かりやすく書かれていると思う。