家族写真をめぐる私たちの歴史 在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性
ミリネ編、皇甫 康子、御茶の水書房、2016
2540冊目
著者の一人でもある川崎那恵さんからのおすすめ。
責任編集者の名前が読めない! ファンボ・カンヂャさん。と、カタカナ標記してしまう限界。どうすればいいのだろうか? きっと、実際の音からは遠のくのに。
日本語の三種を味わう、漢字、かな、カタカナと言った人もいるが、限界だらけだ。きっと、語られているのが日本語である以上、そんな限界だらけの中での物言いなのではあるだろう。
マイノリティにルーツを持つ24人の女性たちが語る家族の歴史。
生年が興味深い。
1957年
1959年
1955年
1990年
1981年
1958年
1986年
1964年
1983年
1972年
1945年
1956年
1965年
1961年
1967年
1946年
1980年
1965年
1985年
1991年
1976年
1986年
スリランカ人の百合子・ニリーマ・ウィターナゲさんの書き様が、いちばん本質を表現しているかもしれない。「外国にルーツを持つ人が、大人でも子どもでも、周囲の期待や先入観にさらされ、いろんなことを言われる状況は今も昔も替わりません。」221
「人生のなかで人が何を選ぶかはその人次第です。・・・誰も何も言うべきではない」
マイノリティというアイデンティティを持つ人であれば、総じて、「語られる」側になるのかもしれない。
そのことの中で、自己形成し、選択していく。
また、出自につながる言葉や歌(例えば琉歌)、食べ物や匂いなどの記憶がある方が、うらやましい。
角岡さんの「ふしぎな・・・」にもつながるが、自らのアイデンティティとして大切なのに、そのアイデンティティを保つことが差別にさらされるリスクもある。
24人中、人権や民族、アイデンティティ関連の仕事や活動をしている人が多い。ほとんどの人は表現の場を得ている人たちでもある。
「語る」ためには「知らなければ」。
「知る」ためには「聞かなければ」。
「聞く」ためには「より広く知らなければ」。
というようなミクロとマクロの行ったり来たりの旅路をたどって、民族、人種、差別、選択のおりなす物語が発見される。
その物語が、一人ひとりのいまの生き方を力づけてくれる。
「日本人」とか、「日本」とか、愛国心とかクールジャパンとかがうずまくいまの日本で、アイデンティティを求め、アイデンティティによるエンパワメントを求める気持ちは、強くならざるを得ないだろうなあ。
「交雑がすすめば、差別はなくなるんじゃない?」というのでは、世界はつまらなくなるばかりじゃないか?