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テロルの時代と哲学の使命

102-4(482)テロルの時代と哲学の使命
ハーバーマス、デリダ、ボッラドリ、岩波書店、2004
philosophy in a time of terror--dialogues with Jurgen Habermas, Jacques Derrida

1930年代生まれの2人の哲学者に、たぶん1960年代生まれの哲学教授が、9.11の意味について問い、対話したものを、1960年代生まれの日本の哲学者が翻訳したもの。

昨日、韓国料理屋で、走向未来後の喉潤し腹ごしらえをしているとき、中澤さんが「子どもたち一人ひとりの特徴をつかみ、長期的な成長の視点にたって見ることができる方法」として五行木火土金水四柱推命を活用しているという。子どものころに「大器は晩成す」なんて言って、姉弟よりもできの悪いわたしを(本人はぜんぜん気にしていない)横で見ている親の方が、気持ちを整理するために自分に言い聞かせていたのを思い出す。それと同じように、子ども一人ひとりのさまざまな育ち方について、親はなんらかの拠り所が欲しいのだ。久我山の細木数子みたいなもんだね。細木はいやみだけど、子どもは素直だから、さまざまな期待のかけ方をしてあげるだけで、うれしいのかも。

わたしたちの時代は、近代というメリトクラシーによる学習性無力感と、前近代的な階級差別のショーを見せ付けられる学習性無力感と、そしてルネ・デュボスやチャドウィック・アルジャーが言うところのグローバルで手が届かない事柄についての知識の方が、身近なことについての知識よりも多いことから来る学習性無力感の三重苦にあえぎながら、子どもを育てなければならない時代だ。

いったい、わたしたちの手中には人間を人間たらしめる何があるというのか。

わたしの父親が育ち、祖母たちが実践できていた自然環境の中での有用感、Locus of Controlは、喪失している。家族というつながりも危うく、もろい。地域コミュニティの堅固さに支えられる側に生まれる人の数は少ない。ヒトが人になるのに、ことばの獲得だけでは、語られていない部分が多すぎる。

昨日『覚悟の介護』荒木由美子著を読んだが、彼女は認知症の義母の介護を20年引き受け、そして半身不随で20年生きた実父の姿を通して、「人間の生きる姿」について学んだという。そうしてでも、生きていてくれること、「ヘンな死に方をしたら、子どもたちに迷惑だから」とがんばった父親、何もわからなくなりつつあった義母の最後の三日間。

自殺した江藤淳の生前にまとめられた『江藤淳』小学館、1997も手元に置きながら、人の生き死にについて考える。妻を追っての彼の自殺を潔しとした評価にも出会ったことがあるようにも思う。

ヒトは、自分の生を生きることで、人になるのだな。自分を引き受けて行く力をどうつけるかが教育の課題なのだ。わたしたちの手中にあるものは、あまりにもていねいに扱わなければこぼれ果ててしまうものばかりだ。

近代化の病理、原理主義とテロリズムを、ハーバーマスは操作的でないコミュニケーションと理性で治療可能であるとする。デリダはそれを不可とする。ハーバーマスが近代化のスピードと不平等の拡大に伝統主義側の防衛反応への契機を見るのに、デリダは近代化そのものが防衛反応の原因だと見る。30-31
自己免疫という、...防衛メカニズムの自然発生的な自殺。
西洋のリベラル・デモクラシーが冷戦中一貫してほとんど自殺的な仕方で将来の敵たちに武器を与え、彼らを訓練した。31
非対称な衝突は自己免疫的危機のさらなるステージ。

グローバリゼーションは東欧の民主化を進めたが、「ビン・ラーディン」と「ブッシュ」のイメージと言説の戦争のスピードも速めている。32

「自然の」富は、今日残された唯一バーチャル化しえない、非領土化しえないもの。33

少数の国家と国際法人が支配する野蛮な近代化と二重の剥奪「近代的デモクラシー経験の欠如」と「非領土化されない自然の富の剥奪」にあるイスラム圏。
そこに発するテロリズムは近代化のトラウマ効果。vs約束、希望、自己肯定

デリダ187-188
グローバリゼーションの恩恵を称揚することが特定の者たちの利益となる時代において、人間社会間の格差、つまり社会的、経済的な不平等は、おそらく人類史上かつてないほど大きく、壮観スペクタキュラーになっている。
いくつかの国、そうした国のいくつかの階級のみが、グローバリゼーションの十全な恩恵に与っている。
9.11攻撃の組織的犯行者たち自身は、こうしたグローバリゼーションの恩恵に与る側。にもかかわらず、彼らはグローバリゼーションによって破滅を運命付けられた人々の名において活動しているのだと言い張った。彼らが簒奪したのは、排除され拒絶され、権利を奪われ、路傍に撃ち捨てられたすべての人々の名であり、そのグローバリゼーションの時代に、他人の腹立たしい繁栄のスペクタクルを目撃するための貧者の手段しか持たないすべての人々の名前です。
こうしたグローバリゼーションとされるもののすべての被害者との対話は起こっていません。かくして、最悪の暴力への訴えが「聞く耳を持たず」への唯一の「応答」として提示されてしまう。
グローバリゼーションは...すべての権力の我有化を隠蔽している。権力は、非国家的な国際構造の掌中に逃げて行く。
良い面と悪い面。
国民国家からなる国際性、市民権を超えて拡張される普遍的な同盟ないし連帯を求めつつ、民主制的な市民権が果たす肯定的かつ有益な役割と、国境を非市民に閉ざし、暴力を独占する国家の否定的あるいは制限的な効果。。191

不寛容は、文化や伝統や正統化のプロセス、そして共同体一般、とりわけ教会や国家の制度といったものの動向そのものからいまだかつて切り離されたことがなかった193-194
寛容は宗教的な根を持つ言説です。それはたいていの場合、優越感に立脚する許容として権力者側で用いられる言葉です。196
寛容はつねに「強者の道理」の側にあり、そこでは「力が正義ライト」です。寛容は主観を補完する目印であり、...「ここが私の家だということを忘れるな」197 という条件付歓待。


序10
全体主義体制が追い求めた権力の独占は「条件反射の世界、自発性のわずかな痕跡もないマリオネットの世界でのみ達成され、保守されうる。人間の資質の偉大さを考えれば、人間が十全に支配されるようになるのは、もっぱら動物的主としての人間という標本になるときだけなのである」ハンナ・アーレント『政治思想集大成』より

共和的な制度と民主的な参加による正義の追求によって格闘しながら獲得される普遍主義(デリダ)
共和的な制度と民主的な参加が有する普遍的な価値(ハーバーマス)

デリダってよく引用されているけれど、難しそうだね。
by eric-blog | 2005-10-01 11:10 | ■週5プロジェクト05
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