社会科アクティブ・ラーニングへの挑戦 社会参画をめざす参加型
学習
風巻浩、明石書店、2016
2456冊目
パウロ・フレイレの理論ら準拠しているようだが、「コード」という用語。
著者にとっては、「コード」というのは深い意味を持つようだが、説明が、不十分である。
これほどの実践経験をもつ人が、なぜ「コード」をこの程度にしか説明できないのか、疑問が残る。
第一部の参加型学習としての社会科アクティブ・ラーニングの創造
は11章からなっており、ほとんどが見開きの簡便な記述である。「章」とは重すぎるネーミングである。
第二部が実践編。
基本レベルが二章、発展レベルが6章、社会参画レベルが3章、
第三部が2章で構成されている。
第二部以降、著者の長年に渡る多様な実戦経験がちりばめられている。
にもかかわらず、「コードとはこういうことなのだ!」という目から鱗がない。
残念としかいいようがない。実践がないのであれば、なぜこの用語にこだわるのだろうか?
参加の三段階は、ロジャー・ハートの「こどもの参画のはしご」から作られている。
それが基本レベル、発展レベル、社会参画レベルの三段階です。
コラム1「参加型学習への誤解」で、ふだんからの関係性がある中での参加型というのは「アイスブレーキング」「アクティビティ」「ふりかえり」という形にとらわれてはならないという。
そして何よりも大切なのは「ふりかえり」であると。41
まったく合意である。
8章でまとめられている「フレイレから見た参加型学習の授業展開」では次のように段階が整理されている。
1. 「コード」の作成 課題の設定、対話の中で読みほどくための枠組み=コード
2. 「コード表示」 開かれた問いとともに提示する。生徒が自ら気づき、発見できるような対話の環境づくり
3. 「コードの解読」 対話的環境で自分自身の経験や社会のなかに落とし込みながら、自分のものとしていく。De-codification 「世界を命名する」
4. 「コードの解読」としての「振り返り」
例えば、コルトハーヘンは「本質的な気づき」と呼んでいるし、InterpreteとORIDクェスチョンでは呼んでいる。解釈する。それを「世界を命名する」と表現することで、主体が際立つ。しかし、同時に、「コード」という共通の土俵によって、その世界は突拍子もない場所であるのではないのだ。
ERIC、体験する、ふりかえる、解釈する、つなげる。
同じことが繰り返し、繰り返し、主張されているのだ。そのような実践力を初期教員養成段階(つまりは学部教育、あるいは修士教育レベルで)で、培うためには、どのような教育改革が求められるかが、問われなければならないのだ。
第二部 は実践。そして第三部は過去と未来をつなぐ。
著者は「やまびこ学校」の実践にフレイレとのつながりと同質性を見る。
ながらく開発教育、国際理解教育の実践を行ってこられた著者の、つながりと掘り下げの成果が詰まった本である。
世界の現実を知ることは「せつない」。
Careする心、慈悲心は、痛みを共感する心のことである。
世界のせつなさから、先進国のわたしたちが目をそむけないことが、いま、求められている。世界をcodificationするのは、わたしたちなのだ。
でもなあ、やっぱり、ビジョニング、未来の創造という部分が、フレイレでは弱いように、わたしは思うのだ。「やまびこ学校」がそうだったように。
被抑圧者、社会的弱者の側にたつ教育の宿命なのか? そのコードを変換する力をESDは持てるだろうか。