山県有朋
半藤一利、PHP研究所、1990
2447冊目
もう驚きの連続である。
民権運動に対する彼の嫌悪感と弾圧、天皇国家神道への傾注。確立のための軍人訓の起草など。
アイデアマンだなあ!
護国寺に墓があるらしい。見に行くか。
民主党の議員某が言っていたが「日本では天皇を担いだ方が勝つのですよ」
ではないが、
「日本で何か新しい改革をしようとする時は、いつでもその精神を誇大に求めればよい」
徴兵制をしき、天子さまの兵隊とする。 59
そして、その御親兵は藩臣ではない! 60
山県有朋は西郷を説得する。「一朝事ある日には、薩摩守に向かって弓をひく決心がなければなりませぬ。」
西郷は言下にいいきった。「よかでごわす」63
明治健軍の最大の功績者は大村益次郎である。
天皇直属の軍隊の設置、各藩主より兵権の奪取(廃藩置県)、全国軍備の充実、兵器製造の独立、兵学校の設置など。徴兵制の実施。
山県はその青写真を次々と実行。
明治五年、明治天皇は全国徴兵の詔を発布。72
西南戦争においては士族兵に頼らず、士族を巡査として採用し、治安維持にあたらせる。81
明治11年、西周に明治、『軍人訓戒』を起草。90
明治18年、内閣制度が始まる。憲法の制定と不平等条約の改正をめざす。121
地方自治では財産家の特権をとくに重視。136
郡制・府県制を、日本陸軍の師団管轄と合致させる。137
明治23年、総選挙。議会の開会。
山県は首相として、軍事予算の獲得に全力をあげる。143
山県は
「ひと言でいえば、コチコチの国家主義者であり、極端なまでに自由主義的な考え方を嫌う超権力主義者であった。頑固な皇室知勇新主義をつらぬき、政党は存在すら認めたくはなかった。「政党政治は皇国の精神に反し、国体に背く」とたえずいいつづけた。152
天皇は三つの性質を内包していた。
(1) 立憲君主
(2) 大元帥
(3) 神権君主
伊藤は憲法にもとづく政党政治に反対ではなかった。
山県は「天皇を神格化し、無条件に「英邁な大帝」としその尊厳性を万人に認めさせる。174
うーーん、すごすぎる。なに、山口県下には、この精神が満ちあふれているのかなあ。
山県有朋像とアイヒマン像が重なるなあ。優秀な官吏ってやつ。
■訃報 半藤一利
2021年1月12日、90歳