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障害のある子の親である私たち

障害のある子の親である私たち
福井公子、生活書院、2013
2428冊目

松波さんのFBで知った本。障害のある子の兄弟姉妹「きょうだい」。さらに不可視なのが、親。特に母親である。

家族主義社会において、期待される「嫁」の役割。子ども、健康な子どもを生み、「勝ち組」に育て上げ、親の介護を引き受け、「わたし」のない人生を生きる。

それが「母親」である。

子どもに障害があれば、その療育は、母親の無償労働によって担われることが当然視される。保護者控え室でのおしゃべりで、「わたし」は「わたしたち」であることに気づいた著者は「親たち」と自分のことを呼ぶ。

著者の子どもさんは自閉症である。見えない障害に対する支援は、身体障害に対する支援より後発であった。そのために、著者は障害者運動から多くを学んだという。

60年前に設立されたという「障害のある子の親の会」。先達はいる。そして、先達の運動によって得られたサービスが「あの時何にも考えていなかった私たちの手の中にストンと転がり込んできました。」134

結果「自分の子どもの暮らしさえ落ち着けば、社会の問題に興味を持たなくなる人がとても多い」ことになる。

これは女性の権利にも、そして同和問題にも通じるのではないだろうか?

「ストンと手の中に入ったもの」によって、運動から遠くなるわたしたち。
それが、1980年代までの運動の結果のいまなのだと思う。

わたし自身にも「ストン」と手の中に入ったものがあった。
そして、戦ったものや戦っているものがある。

「あたりまえ」のものが手に入れば入るほど、次に戦うものを、ともに戦う人は少なくなる。

伴侶のことを「主人」と呼ぶな。
シンポジウムの登壇者の半分以上を女性にせよ。
女性議員を増やすこと。クオータ制をマイノリティのために導入すること。
男性中心社会を解体せよ。
役割社会から個人を大切にする社会へ。

これらの主張は、根本的な変化を求めていることの一つ一つの現れなのだ。しかし、そのことに合意してくれる人は少ない。女性たちは、それぞれ「生き延びる戦略」「解放の戦い」「自己実現の道」のいずれかを歩んでおり、それぞれに求めるものが異なる。

「生き延びる戦略」を生きている人は、母親を引き受け、オンナを引き受け、妻を演じ、伴侶を「主人」と呼んで憚らない。

「解放の戦い」を挑んでいる人は、高齢化し、婦選会館につどい、女性の運動につらなっている。

「自己実現」にいそしんでいる人は「女性」だからとつるむことはない。

大方の次世代女性たちがストンと手の中に入ったものに気づかぬうちに、それが気に入らない人びとからのバックラッシュにもさらされた。戦いを好まない、戦いにひるんだ、戦うことをしてこなかった女性たちは、それ以上を求めることをや・め・た。


あああ、そうなんだよねぇ。
どうすれば、女性運動が続くのだろう?

著者は言う。

「親である「私」が自分の人生を大切に思い「私」の権利に気づいた時、初めて障害のある子を一人の人間として尊重し、あたりまえの権利を保障していくことに強くこだわり続けることができるのではないかということ。そして、それが社会の在り方を問う活動につながるのではないかということ。」165


支援者の主義主張のためにボクはいない
ボクのために支援はある。

その基本を忘れないこと。
そして、同じ立場の人たちのためのおしゃべりの場は常に必要だということ。

女性運動も同じだよなあ。1980年代の方が、場があったのではないだろうか。

自立支援法がつくりだした「勝ち組」「負け組」
さらには支援者と言いながら売り込んでくるもの。
by eric-blog | 2016-01-24 09:06 | ■週5プロジェクト15
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