民を殺す国・日本 足尾鉱毒事件からフクシマへ
大庭健、筑摩書房、2015
2376冊目
1946年生まれの著者は哲学や倫理を研究する大学教授である。
なぜ、日本という国は、民を見殺しにするのか?
それに対する答えとして著者が造語した概念が二つある。
国策民営
と
国家教
言葉は新しいが、定義に含まれる内容はさほどこれまでの議論と変わるわけではない。
前者は護衛船団方式とも言われていた事象も含むが、原子力産業についてや、それこそ足尾銅山についてなどは、まさしく「国策」を体現している民間会社による罪、民間会社のために法律を作ったり、替えたりする官僚システム。
後者は、国粋主義や国家主義などのイデオロギーの言葉として流布しているものがあるが、「○○教」と名付けることで、イザヤ・ベンダサンの「日本教」など、空気のようになっているものを思い出す。
「国の」という冠言葉がつくだけで思考停止になる構造。200
官が決定した国策についての議論不可能性。
著者は足尾銅山の村落共同体の破壊に、共同体と国家の関係を読み解く。
村落共同体が堤防工事に協力するのは義務である。
その延長上に「国家」への義務が置かれて、遠く異国まで兵士として出かけるのだ。死んだ兵士は「名誉の戦士」。雀の涙のような弔慰金すら、谷中村で立ち退きに反対している家族に対しては、「立ち退き同意書」に署名しない限り払わないなどということを国はしたのだ。203
国家と非国家的自治という、緊張をはらんだ多元性は・・・明治期の国民国家の形成における、国家への包摂のさまはかなり異様である。205
河上肇「日本において神は国家である。」
国策に対する知性の犠牲215
国家崇拝が宗教的になればなるほど「犠牲はやむをえない」ことになる。218
うむむむ、考えるきっかけとしては、おもしろい!