他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス
若泉敬、文藝春秋、1994
2370冊目
佐藤首相時代の沖縄返還交渉1967年から四半世紀をすぎた1994年にこの本を出版。未公開ながら、特別にみせてもらった『佐藤日記』など、多くの資料にもあたり、自分自身の体験したことを客観的に補強しつつ、「他策なかりしか」と自ら問いつつ、沖縄返還にかかわる密約の存在に責任あるものとしての思いのすべてを込めた本。
その決意は巻末に「読者の皆様へのお願い」として文藝春秋社がまとめた著者の思いにも現れている。ここにすべてを込めたのだと。これ以上の取材は受けないと。
そして、その二年後1996年、著者死亡。わたしの母と同じころの生まれである。
政治家ではない。学者である。テーマは「国際的な核軍縮にまつわる日本外交のあり方」について。著者は国際的な情勢は核軍縮に向かうこと、そして、そのために日本外交が大きな役割を果たすことができることを論文や講演などを通じて発信していたのだ。
NPTは「我が国にとって敗戦後初めて超党派の国民的合意を得ての、しかもグローバルな規模での自主外交になりうるのではないか」21
そんな気概をもって、外交を論じていた。
そこに、福田赳夫自民党幹事長を通じて、佐藤の沖縄交渉の懐刀となることを要請される。
まさか、それがどれほどの密使のような極秘交渉の働きを求められることになるかを知らず。
若泉の焦点は安全保障であった。
しかし、国際外交というのは一つテーマでは動かない。
1960年代、アメリカは国際問題ではベトナム戦争を戦い、泥沼化し、国内問題では日本の台頭に怯える軽工業問題があった。
「1967年の極東情勢は・・・米国にとって悪化の一途を辿っていた。・・・泥沼化する一方のベトナム戦争・・・核武装する中国の潜在的脅威や朝鮮半島の緊張」32
本にも若泉さんの信ずべき交渉相手として出てくるモートン・ハルペリンさんは、1965年当時の米国に戻って、関係者に「沖縄返還が1972年に実現すると思うか」と尋ねたら、笑い飛ばされるだろうと指摘する。
http://cgi2.nhk.or.jp/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0012100028_00000
「沖縄の基地が安全保障に役立っているのではない。沖縄が基地なのだ」と。
ハルペリン氏は2014年にも来日し、秘密保護法について、国際規準に照らしてその問題点を指摘していた。
若泉氏より6歳若い29歳での重責。腹心の友とも言えるほど、肝胆照らして話し合えた様子がよくわかる。
1967年11月10日。ロストウ博士との極秘会談。出された変換にかかわる懸念は三点。90
1. ベトナム戦争の行方。
2. 共産中国
3. 沖縄の核存続
外交交渉において重要なのは、相手を説得すること。返還がアメリカにとっても利益になると納得させることだ。92
若泉さんがその時固執したのは「返還時期」を提示することを求めることだった。
繊維問題について、著者は再三再四述べている。
ニクソン大統領にとって内政のカギである繊維問題について、その問題について知らないまま、佐藤首相の肯定的な返事だけでことをすすめたこと。
しかし、一方で、にわか勉強で繊維のことを学び始めたら交渉の秘密のチャンネルが明らかになる。
問題を知らなければ交渉できず、知ろうとすれば秘密が保てない。
「悔やんでも悔みきれない痛恨の種」459
他に策はなかったのだと、信じたい。
そう思いはしても、苦しんだのだろうなあ。