高橋源一郎×SEALDs 民主主義ってなんだ? まだこの国をあきらめないために TELL ME WHAT DEMOCRACY LOOKS LIKE
河出書房新社、2015
2362冊目
『官邸前にて』を観た。小熊英二監督によるYouTube動画およびインタビュー動画のクリッピングによるまとめである。数十人規模のところから大きくなって行った経緯が描かれています。
この本は、それと同様、数人から始まったSASPL、秘密保護法反対の時からの動きが、大きくなってきた経緯を、奥田、牛田、芝田の三人と高橋の対談で明かしつつ、第二部では民主主義について語り合っている。
個人を中核に据えた市民運動と言えば、ベ平連を思い出すし、ベ平連と言えば小田実を思い出す。高橋は、小田がギリシアの研究家であったこと、彼の発想の元に「ギリシアの民主主義」があったのではないかと指摘する。
ソレル『暴力論』
鶴見俊輔『教育再定義への試み』
トゥキュディデス『戦史』
ルソー『社会契約論』
ルジャンドル
など、討論するなら定義しろ。
言葉について、その背景や定義についてよく考えて出されている。
「本当に止める」というスローガンにしてもそうだが、これしかないという言葉が、あるのだろうなあ。
それは、アニメ映画の監督が言っていたなあ。これしかないという線があると。
SEALDs
5月からの4ヶ月を走り抜けたSEALDs。
その後を作るのは、一人ひとりなんだろうなあ。
でも、ベ平連は、その後の地域でのオルタナティブの拠点につながったが、選挙にはつながっていない。選挙という議会制民主主義をルソーなどは否定しているということになるのだが、思想的には否定されていても、実際の政治はその枠組みで動いている。
そこには、食い込んでいなかったのだ。個人個人という人間はそんなに多くないということか。
次の「国会前」という映画は誰が作るのかなあ。歴史の証人になった気分はするが、まだ主体になれた感覚はないなあ。
教育と民主主義は同じ本質を持っている。
子どもの村学園
そこの実践と「みんなの学校」の実践が、似ているのだ!
http://gqjapan.jp/column/story/高橋源一郎/20130327/revolutionizingschooleducation/page/6
「体罰」の根っこには、「教える」ことと「教えられる」ことという非対称の関係があったんだ。
最初に作ったのが、和歌山県の「きのくに子どもの村学園」。そして、その後、福井県に「かつやま子どもの村」、福岡県に「北九州子どもの村」(ここだけは中学校のみ)を作った。4つ目が、ぼくたちの訪れた、ここ「南アルプス子どもの村」(小学校・中学校)だ。