日本の自治・分権
松下圭一、岩波新書、1996
2318冊目
5月6日になくなられた松下さんの『社会教育の終焉』は、必読だ。
阪神大震災の翌年に書かれたこの本。
防災計画で行政が崩壊することが想定されていないことを指摘する。
それは、都市型震災についての指摘だったが、東日本大震災でも、同様のことが起こった。範囲が広範だったせいだ。
自治体は市民の信託をうけた市民の政府という責任意識が不可欠。13
1960年代に、日本が近代化の成熟段階としての都市型社会に入り、・・・国家を推力とする「近代化」から自治体主導による地域個性をもつシビル・ミニマムの公共整備へと変わります。・・・市民活動が活発になるとともに、政治・行政の分権化が不可欠となります。
第二に、・・・国際分業・国際交流を深め・・・各国の制度の世界平準化を不可欠にします。55
第三には・・・政策水準の文化化
国主導を続けることで起こることは
1.全国画一であることで、低位平準化になる
2.国の縦割りバラバラ行政
3.社会の変化への対応の遅れ
これに対応して個性化、総合化、先導化に取り組んできた。58
「公」は国家主権という国への一元化あるいは階級闘争という二元対立も終わり、自治体、国、国際機構へと多元化重層化する。「公」は市民活動によってかたちづくられる。
互いに、ウインウインの公共政策の構成が問われている。156
書かれていることと、その後の事態の変化は、真逆だなあ。
確かに阪神淡路大震災の年は「NGO元年」とまで言われたし、NPO法案もできたし、NPOが管理指定業者になったりもしてきているけれど、いまのように民主主義の四原則(平等、参加、熟議、非専制)が政府によって尊重されない時、市民社会はその「問題提起」の役割を果たせず、「実践活動」という手足だけの存在になって、劣化していくのではないだろうか?
わたしが『社会教育の終焉』でもっとも心に残るフレーズは「争点のない社会は衰退する」というようなものだった。争点をどれだけしっかりと熟議することができるかが、市民社会の成熟なのではないだろうか。