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日本の反知性主義 Anti=intellectualism in Japanese Society

日本の反知性主義 Anti=intellectualism in Japanese Society
内田樹編、晶文社、2015/05/29
2515冊目

知性とは何かについて、10人の人たちがかたりあるいは語り合った論集。

鷲田清一さんの「「摩擦」の意味—知性的であるということについて」が、知性を、単に科学的好奇心や探求の姿勢ではなく、異質な存在があるという前提で発揮されるべきものとしてとらえ、整理してくれている。

近代は、民主制、立憲制という理念が普遍的に共有されるべき普遍的なものであるという意志の世界への広がりであると考えると、広がる過程においてさまざまな軋轢が生み出された。288

普遍性をうたうことで、これに従わない存在を否定する。排除する。
そこに「共存」の可能性を求めると、「摩擦」が生まれる。

しかし、いま、憂うべきは「統合の過剰」ではなく、「分断の深化」ではないという。291

「摩擦」を消すのではなく、「摩擦」に耐え、そのことで「圧制」と「頽廃」のいずれも回避するためには、煩雑さへの耐性というものが人々に強く求められます。292

知性は、・・・世界を理解するときの補助線、あるいは参照軸が増殖し、世界の複雑性はますますつのっていきます。・・・煩雑に耐えること・・・それが知性的ということなのです。292

オルテガが「手続き、規則、礼儀、調整、正義、道理」という共有された作法に則って、世界をなんとかして解釈しながら生きていますが、・・・その解釈をより正確なもの、より立体的なものにしようとすれば、じふんとは異なる他の位置からの証言というものが重要になります。293

解釈を立体的にするための「対話」。重要性も困難も、そこにあります。294

困難を乗り越える作法として、文化や文明。

オルテガが「大衆の反逆」といったのは「自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みついてしまう」性向。・・・「ただ自分の意見を断固として強制しようとする」そういう性向をひとが羞じるどころか逆に当然の権利として主張する傾向。

控訴の可能性の欠如こそ、野蛮  295

自由主義とは・・・多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かつて地球上できかれた最も気高い叫びなのである。」オルテガ『大衆の反逆』p.107

想田和弘さんは、ドキュメンタリーにおける「台本主義」が知性を壊すと指摘する。ある到達した点にとどまるのでは、知性はない。258

仲野徹さん、生命科学者。科学の進歩に伴う「反知性主義」。だよね、とうなづきたくなること。遺伝子解析のための「夢のような研究技術と環境」が整っているが、その定型的な研究技術と環境が、研究を定型的にしていくし、手続きや膨大なデータの収集にかかる時間によって、論文数がかぎられていくという矛盾が語られている。科学者個人の貢献は低下し、資金がかかる研究技術をもてるところと持てないところが出てくる。

情報の膨大化と技術の定型化標準化。275

さらに、専門外の人々、専門家研究者以外の人々に対する説明のあり方についてもSTAP細胞の例から論じられている。「大衆を反知性主義に貶めてはならない」と。281

編者である内田さんの「反知性主義者たちの肖像」より
「社会的あるいは公共的」であるためには時間を味方にしなければならない。038

先行する世代の「肩の上にのって」仕事をする。
次世代につなぐ。

そして、そこで内田さんは、指摘する。「反知性主義者たちにおいては時間が流れない」と。
だから彼らは少し時間をかけて調べれば簡単にばれる嘘をつき、根拠に乏しいデータや一義的な解釈になじまない事例を時節のために駆使することを厭わない。これは自分の仕事を他者との「協働」の一部であると考える人は決してすることのないふるまいである。041

その最悪の事例が「マッカーシズム」だったと。

自分の言っていることを信じていない人間は、自分の言っていることを信じている人間よりも、論争的な局面ではしばしば有利な立場にたつ。

自分が「革新のないことを語るときの気後れ」

反知性主義者には気後れというものがない。・・・論争における勝負の綾を熟知している。「ふつうなら気後れして言えないこと」を断定的に語る者はその場の論争に高い確率で勝利する。

反知性主義者のほんとうの敵は時間なのである。

だから、彼らは「反復」を厭わない。時間が経過しないかのように。053

ふつうの人間は同一性の反復に長くは耐えられない。・・・反復は反生命的であり、反時間的である。

「当面の政局」に集中する政治家。

白井聡さんは、もっと辛辣だ。「B層」のような階層。

仲野さんの杞憂に加えるものだと感じたのは、白井さんが指摘する人文主義的学問への抑圧がある。

小田嶋隆さんの「分断」のもととして知性がやり玉にあげられていること、痔地元から出て行く者、出て行かないものとの分断の根拠である学力。195

15歳の分断。

「戦後70年の自虐と自慢」平川克美さんの安倍演説分析も重要だ。日本はドイツと異なり、フィクションとしての「戦争犯罪人」を持たず、戦犯たちを靖国に祀ってしまった。そこに大きな違いがあるよね。


そうだ、もう一つ、心に残ったエピソード。
鶴見俊輔さんが、息子さんから「なぜ自殺してはいけないか」と問われた時、「自殺をしていい時がある。一つは命令で人を殺さなければならなくなったとき、もう一つは女性を強姦しそうになったとき」と。内田さんの紹介です。
by eric-blog | 2015-05-29 11:20 | ■週5プロジェクト15
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