生活の設計
佐川光晴、新潮社、2001
2501冊目
『牛を屠る』も、この本も、特に紹介しようとおもって読んだわけではない。
そして、さらに、この著者は「主夫業」についても書き進んでいる。
しかし、この本を紹介しようと思ったのは、次の一言のためにつきる。
「つまり屠殺はひとを饒舌にする」
牛を屠ることについて、単に屠殺の実務について書くだけでも、事典ほどのことはあるだろう。しかし、饒舌になるというのは異なる。一冊の本を書けるということもすごいが、本人が書くだけでなく、関わる人々も、語るのだ。
大学の同級生からの糾弾のごとき問いかけと、延々たる対話が、なぜと場で働いているのかということについて、展開される。数ページにもわたって。
主には、「子どもに職業を言えるのか」ということを巡る葛藤だ。
職業差別、出身地差別そのものなのだが、この本には、そのことで逡巡する人の姿が、えんえんと書き出される。反対運動も、糾弾も、そこにはない。
饒舌さには、もう一つある。
命を屠るということそのものについてである。そして、その行為に習熟していくからだ感覚についてである。
ある時、著者は、作業中に手が滑って、前のめりになり、牛に眉間を蹴飛ばされる。そのとき、彼は真理をみたと。
命をとる作業に慣れていきつつ、馴れてはならないこと。ましてや狎れてしまって、あなどることはできないこと。
そんなことを、遠くなっていく意識のそこで、しびれるように感じ取る。
牛を屠る。
そのことが人を饒舌にするがゆえに、実は、社会的な差別にもつながっていくのだろうと思う。
何か禍々しいもの、何か神々しいもの、何か超越的なもの、何か超絶的なもの、何か根本的なもの、何か根源的なものが、そこにあるがゆえに。
それに触れることがなくなったいまだからこそ、合理的理性的に、割り切ってしまうことを拒否する感覚が、残り続けるのかもしれない。
そんなことを考えさせられた。