山の世界 自然・文化・暮らし
梅棹忠夫、山本紀夫、岩波書店、2004
2381冊目
「三冠地域の集落と過疎問題」
藤田佳久
山は豊かだ。縄文時代、山間は優れた居住空間になった。日本は国土面積の70%が山間地域である。
にもかかわらず、なぜ人が住まなくなるのか。過疎化をどうすればいいのかを考えた論文である。たった8頁なのに、めちゃおもしろい!
高い山々の中腹斜面に立地する集落と山間の窪地や小盆地に立地する集落の二つのタイプがある。239
前者は、中央構造線の南側(外帯)の山地に
後者はその北側(内帯)に
見られることから、それぞれ外帯型集落と内帯型集落と呼ばれる。
外帯の山地は古生層や中生層の堆積岩からなり、それが隆起し、浸食により深いV字状の谷が刻まれている。そこで集落は、南面する日向斜面に立地し、家の回りは常畑、上の方にも畑を開いている。道路は尾根筋でつながっていた。
内帯では花崗岩が隆起の過程で風化、おだやかな凹地状の地形。中世に凹地を怒号単位で開拓定住したケースが多く、同姓の家が多い。凹地を「洞」と呼んでいる地名が美濃三河高原にある。凹地の中央には小河川が還流、水田化が容易で周囲のやまやまは肥料源として草山化。小宇宙空間。土豪の祖先祭礼。
山間集落の起源は沖積平野に現存する集落より古い。
徳川政権が米を経済基盤の基礎にしたために、水田適地の新田開発と治水がすすめられる中で定住化が可能になったのだ。
また、徳川政権は、山間地域の権力のシンボルであり騎馬兵を擁した武田軍勢を、平野をベースにした信長・家康連合が打ち破った結果のもの。そして、徳川は山間勢力を徹底的にそいだ。大山村をつぶし、「秘境化」。近世当初まで光り輝いていた世界。落人伝承は徳川による「山村つぶし」の所産。
例外は、幕府直轄領の、秋葉街道、田舎移動、別所街道など。
柳田国男が集めた山間地域の伝承記録。徳川時代の農民定着制作からもれた狩猟民や木地師など漂泊の民に日本人の原像があった。
貨幣経済の波は、山間地域を脆弱化。冷害のたびに地主小作関係がひどくなり、それに対する解決策として満蒙開拓があった。
戦争で都市が焼かれ、人々は農山村へうつった。それまでも都市が不況になると農山村に人がもどるなど、農山村の人口は波動的。
打撃となったのは、高度経済成長と、安価な石油輸入。昭和三十年代に木炭生産は壊滅。昭和四十年代には林業不況。昭和38年1963年、日本海側豪雪。中国山地の人々は山村を捨てた。
この間3000万人の人々が都市部に流出。一戸建て農山村型住宅を市街地の郊外に誕生させた。
社会的空白地域の拡大。
全人口の6%が過疎法の指定地域。面積は国土の50%。山地の70%。
環境問題も含め、山間地域の重要性は増大している。
人口の少なさを前提とした「少ない人口で山村を維持管理する新しい山村システム」が指向されるべき。