信頼の条件 原発事故をめぐることば
影浦峡、岩波書店、2013
2378冊目
この本を読んで、いまの社会のインテリジェンスの欠如した言論の発生源は、3.11以降の科学者や専門家たちの態度にあったのだと思い至る。
しかし、それ以前の「原発神話」は、ではどうだったのか。と考えると、日本はまだまだ知的な成熟社会ではなかったのだと、思い知る。
ま、それはそれとして。
東大の「コップの中の嵐」に思える。どのように知的信頼を回復するのか、どのように東大内で対話を可能にするのか、原発事故というような学際的な課題にどう取り組むのか、そこが気になる。わたしたち、素人に語ってんじゃないよ。あなたたち相互の問題でしょ?
と、ほぼ、怒り心頭に欲するような内容である。
あまりにも循環的な、つまりトートロジックな、自分たちの既知を前提として結論を導きだす、結論ありきの議論をする、審査する側も審査される側も同じなどの破綻が指摘されていく。
専門家がしっかりと議論してくれたのはありがたいが、そんなこと、わかっていただろう? 山下俊一さんの100mSvが怪しいとか、田中俊一さんが内部の人間だとか。
教育学部に職を得ているのであれば、教育についても語ってくれよ。
まあ、いいや。
信頼について。
credibility
reliability
trust
faith
情報発信者や情報に求められる要件 65
A. 形式に関する要件
(1) 一貫性
(2) 包括性・体系性 情報に恣意的な欠落がないこと
(3) 説明・挙証責任
B. 内容や位置づけに関する要件
(4) 話題の妥当性
(5) 事実性
(6) 内容の妥当性
よく聞かれた「冷静に対応してください」とかいう表現は、信頼の問題をtrustやfaithなど、受け手の問題にしているという。
市民は専門家ではないと発言を切り捨てることもできる。83
「少なからぬ専門家が、第二章で見たように、未知の自体を前に、科学的態度で接するかわりに既往の知識を当てはめようとする権威的「専門家」の態度をとったがゆえに、事実に反する発言を繰り返し、信頼を失うに至りました。」85
「不安をもち不信感を抱くことが冷静さの欠如ではなく、むしろ冷静かつ合理的な判断の感情レベルでの一つの現れであるときに、冷静さを偽装しつつ実際には思考停止した人々が自ら科学的であると称して声高に発言する社会で、本来専門家が負うべき説明責任・挙証責任を負わされながら十分に発言する機会をもたない市民が抱くのは、科学に対する不信感にとどまりません。」87