ルポ虐待-大阪二児置き去り死事件
杉山春、ちくま新書、2013
2189冊目
前作で著者が指摘したことは、育児能力が欠如している当事者を支える家族の力が衰退していることだった。育児環境が「個」的になっている共通の課題として育児放棄の問題提起を行っているのが、育児支援の社会化の課題とも重なって共感できた。
ネグレクト 育児放棄
真奈ちゃんはなぜ死んだか
杉山春、小学館、2004年http://ericweblog.exblog.jp/1399924/
今回は、すでに、当事者である母親が育児放棄をされた側であり、その病理を抱えながらの回復、社会への適応、育児責任の引き受けという課題が押し寄せた場合のケースであるということだ。
自分の育った家庭に対する「不足感」から、早く子どもを持ちたい、家族願望が生まれることは理解できる。
確かに、育った環境に母親はいなかった。しかし、父親や祖父母等は手をのばせば届くところに、決して経済的に困窮しているわけではない家庭として存在するのだ。誰もが積極的には介入しなかった。
父親がきびしく突き放したからか。
自分自身も自立しなければと思ったからか。
衰弱していく子どもたちと撮った写真をブログやSNSに流して、それでも「幸せ」を装う母親。
さきほど紹介した「主流秩序」に絡めとられた悲劇が見える。現実ではなく、「らしく」装うこと、「負け犬」に見られないこと。
特に、スポーツ指導者として認められている父親からの価値観の刷り込みは強いものがあったに違いない。
主流秩序というバーチャルな価値観に沿って生きているよという演技、仮面社会、それがいま、わたしたちが直面しつつある問題なのだ。
「幸せ」以外ではありえない、許されない社会。
一方で「幸せ」を否定される存在も明確だ。
「加害者の家族は幸せになってはいけないのか?」
http://buzznews.asia/?p=16031
いまや日本は「幸せ相互監視社会」になりつつある。