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ドイツ反原発運動小史 原子力産業・核エネルギー・公共性

ドイツ反原発運動小史 原子力産業・核エネルギー・公共性
ヨアヒム・ラートカウ、みすず書房、2012.11.9
1985冊目

日本には「市民社会」がないと考えてはならない。しかし、フクシマ以前には、これらの抗議運動は、地元の農民や漁師の抗議、若い母親たちの抗議、野党の政治家や体制批判的な科学者たちの抗議が存在した。しかし、そこには国内的・国際的なネットワークが欠けていた。だが、このネットワークこそが重要なのである。

1973年 「地球の友」ドイツ支部の創設者ホルガー・シュトローム、反原発論を出版「Friedlich in die Katastrophe: Eine Dokumentation uber Kernkraftwerke」

1950年代後半に小型実験炉の建設反対運動
1957年 ドイツ連邦軍の核武装に反対する「ゲッティンゲン宣言」
1959年 ドイツ原子力法、核技術の推進と安全性の確保
1960年 「ドイツの核に対する不信感は理性的である。」原発設計技師。「平和的な原子力」に対する諸外国のいきすぎた熱狂は「原子力精神病」。音頭を取るのは投機家ではなく、技術者であるべきだ。
1968年 ヴュルガッセン原発建設反対運動
1968年 ネオマルクス主義は核技術をもっとも「科学的な」技術として支持。
1972年 連邦行政裁判所で「ヴュルガッセン判決」安全性の優先へ
1975年 ヴィール原発の建設予定地を占拠、不法活動への一線が超えられ、警察部隊が放水車で突入。裁判所が建設許可を取り消し
1977年 裁判所、破砕防護を原発に要請。コストが高くなり、電力会社、撤退。
1977年 カーター政権、核兵器に転用可能な核分裂生成物の「拡散」を憂慮、高速増殖炉と再処理工場の建設拒否。(米国)
1970年代 後半の抗議運動、増殖炉建設と再処理工場計画に集中。
1979年 「未来の核エネルギー政策」国会調査委員会活動開始。エネルギーの選択肢をキープすること、過酷事故の可能性を過小評価しないことに合意。
1979年 国際ゴアレーベン・シンポジウム、再処理工場の建設計画撤回
1985年 カルカー高速増殖炉、操業準備が整うと同時に停止に追い込まれる。
1986年 チェルノブィリ
1990年 緑の党、東西統一に反対の姿勢をとっており、内紛状態。

1966年 レイヴンズウッドの原発計画中止、米国、「最大想定事故」の際に、緊急冷却装置への信頼性の疑念から。

ドイツの反原発運動の持続性や成功は、抗議運動の内的構造からだけではなく、市民の抗議やメディア、政治、行政、司法、そして科学の相互作用からも説明される。

新しい啓蒙としての反原発運動。

原子力に対する抗議は、68年の学生運動かと環境運動とを結びつける決定的な絆となった。それがなければ、緑の党の成功は説明できないだろう。25
by eric-blog | 2013-05-29 13:52 | ■週5プロジェクト13
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