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原発依存の精神構造 日本人はなぜ原子力が「好き」なのか

原発依存の精神構造 日本人はなぜ原子力が「好き」なのか
斎藤環、新潮社、2012
1909冊目

ずいぶん前に、「ひきこもり文化論」を紹介している。
http://ericweblog.exblog.jp/894611/

ふくしま は日本人の時間を変えたのだと、言う。

ヒロシマナガサキが、日本人の原則を形作ったように。

フクシマ は脱原発を日本人に刻印するだろう、と。

「被災した時間」

複数の時制に引き裂かれてしまった。

映画「この空の花」が示すように、戊辰戦争、真珠湾攻撃、長岡空襲、原爆投下、中越地震、など、悲劇の記憶が、被災によって引き起こされるのだ。人びとは3.11を中心に記憶する。

原発事故について、その深刻さが後になって、どんどんと情報が出されていく。深刻さそのものは、もう人びとを驚かさない。過去が塗り替えられても、わたし自身のあの時は変えようがないのだから。しかし、過去の塗り替えは、確実に、行政や企業に対する信頼というこれからを、未来を確実に塗り替えると、著者は言う。

「さらに大きなウソの前触れ」15

第二章「未来は今」で、著者は、猪子寿久の言葉によって、思索を深める。キーワードは「無限」と「有限」である。

「なぜ日本ではアートが売れないのか」

それは、アートは無限であるから。無限にあるものに金は払わない。

西洋ではアートは神の技であり、ある時、ある芸術家を借りて、表出した有限のものだと考えているのではないかと。同じく無限に発しながら、発したものをどう捉えるかが異なる。「日本においてアートは、いやむしろあらゆる”出来事”は、それを創造する主体抜きで、際限なく”自生”する。そこにあるのは”creation”ならぬ”generation”なのだ。」29

災厄すらも無限に生成するほかはないものとして受け止める無常観。

人間の固有性すらも無限に、というよりも無際限に生成するものととらえている。

日本文化には本質的な意味での「永遠」の概念はない。あるのは「いまここ」がどこまでも連続しているような無窮性への確信のみ。37

そのような感覚にこそ、倫理的な限界があると、著者は指摘するのだ。

確率的生の時代。

「お前は約70%死んでいる」というナンセンスが、現実的な不安として、病あるいは死が発出するまで継続する。

内部被ばくについて、わたしは著者と異なる見解を持っている。あの事故によって、追加的な内部被ばくは、確実に起こっている。世界で。

その上で、このように表現したい。
・内部被ばくの結果、障害を発出する確率
・生存率を左右するその他の要因との関係
・事後的には障害を取り除く手段が存在しない
確率的であると知りつつ、その確率を減らす手段を持っていない。

ありとあらゆる「確率的な生」の結果、「なぜ、わたしが生き残ったのか」

震災のサバイバーには、自責すらあるという。

そして、極めて低い確率でしかないのに、起こってしまった原発事故。その「リスクによる連帯」に向かうのか、それとも「リスクによる分断」が深まるのか。115

もともと、原発は「愛郷」をベースに「原発推進」「原発反対」も含み込んでいるのだ。立地自治体においては。

そして、著者は、

あとがきに提言している。「これからの反原発は、-享楽的な-「闘争」ではない。それは数十年単位でなされるべき、行政や企業との政治的な-反享楽的な-「交渉」なのである。

いまは絶望したり自暴自棄になる時ではない。ぼくたちにはこの運動を、長い年月をかけて維持し成熟させていく責務がある。185

果たして、ここまでの著者の指摘を読み込むならば、この提言を受け止めるだけのものが、「日本人」にあるのか、疑ってしまう。よね?

村上隆「五百羅漢図」
映画『この空の花』
http://www.konosoranohana.jp/
by eric-blog | 2013-01-18 09:16 | ■週5プロジェクト12
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