体罰という指導法の、何が危険なのか。
それは人の上にたって指導する人が、「部を強くするため」とか「試合に勝つため」であれば、人をなぐっていい、という誤ったメッセージを伝えるからである。
大人になって、社会人になって、スポーツの指導者になって、「なぐる」ことが認められるとか、やっていいことだと理解する生徒はほとんどいないだろう。
であれば、人として、指導者として、生徒の学びにつながる指導法を提示することが、指導者の務めなのではないか。
また、全体主義的価値観も育てるだろう。いや、全体主義に対する依存症を育てるだろう。それは「わたくし」を育てないということである。
体罰を正当化するような発言まで許してしまうようでは、感覚が鈍ってしまっているとしか言い様がない。
「大人」に対してであれば、許されないことだということは、理解してもらえるのだろうか。
だとすれば、なぜ、高校や中学では「許される」のか?
どう鈍っているのか? 「子ども」対「大人」の力の格差に無自覚であること。
学校という閉鎖空間に閉じ込められているからこそ、犯してしまう間違いなのだ。
中間組織の全体主義。