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体罰はなぜ禁止?

体罰はなぜ禁止?

一度でも、体罰を振るったことのある教員には、「コルトハーヘン・モデル」でもなんでもいいから、「省察」を求めるべきだ。

わたしが応用しているコルトハーヘン・モデルをシンプルに説明すると、「体験をふりかえる」「その時、自分と生徒、それぞれが何を考えていたかを整理する」「本当に実現したいことは何か、優先順位をつける」「他の選択肢がなかったか検討する」「改善の手だてを考える」

要するにPDCAなのだが、ポイントは二つ。自分自身と生徒の「行動・感情・価値観」の背景を整理すること。そして、「本当に達成したいことは何か」優先順位をつけることである。この「本質的」な部分を疎かにしてはならない。

スポーツ指導で体罰をする教師は、この本質的に大切なことの省察において間違いをおかしやすい。

その場面での「生徒」について、ふりかえってみよう。

生徒の達成が悪い、生徒もそれがわかっていて、がっかりしている、生徒はスポーツ大会でいい成績を納めたいと思っている。だから、何か発奮できるものを求めている。

そして、「教師」はこうだろう。

生徒の達成が悪い。がっかりだ。わたしはこのチームを率いて、いい成績を残したい。だから発奮させよう。

こうならば、「教員」が教育から外れていることは明確である。

生徒の達成が悪い。生徒はがっかりしているだろう。この子はキャプテンだ。言わなくてもがんばる子だし、発奮する子だ。今回の試合で何が課題だったか、しっかり意識化することを手助けすれば、修整できる子だ。いっしょに考えよう。

では、体罰のサイクルを考えてみよう。

「いっしょに考えよう」は、なめられやすい。なぜならば、「生徒は発奮するもの」を求めているのだから。分かりやすさという「力」を付与してくるのは生徒たちなのだ。そして、その付与される力にのっかって行使してしまうのが「体罰」なのである。

体罰を見て、生徒は、「ぴりっ」とする。「力」を見て、安心する。緊張する。

それだけのことなのだが、人間のからだを「ぴりっ」とさせるのは意外に難しい。

いま、毎朝、テレビ体操、ラジオ体操を6時25分から続けてやっている。テレビ体操を始めてよかったことは、「動き」のポイントが目で見えることだ。それまでラジオ体操だけでやっていたのとは、まったく違ってくる。新春、1月1日の回では、出演者の方一人一人が、何に心がけているかを語ってくれた。「よい姿勢で」「手先や足先のすみずみまで」などのポイントは、当たり前だと言えば、当たり前だが、改めて意識化することで、動きが違ってくる。

ラジオ体操でも、時々に心がけが言われるが、目で見えることは、伝わりやすい。

「体罰」教師は、一つのわかりやすい方法に頼るようになってしまった「依存症」なのである。安富歩さんの「論語」によれば、小人になってしまっている。常に状況を「新しいもの」と考え、それに柔軟に対応するために「習」うことを忘れた人である。

いまの教育界そのものが「依存症」に陥っていることを理解しなければ、根本的な対策とは言えない。

いまの教育界が陥っている「依存症」のわかりやすいものをあげておく。初等教育では、児童の「天然の向日性」に支えられ、中等教育では「スポーツ」による選抜の隠蔽である。それに頼って、教育は「習」を放棄している。

体罰が禁止されるべきなのは、教員の成長、教育的配慮・工夫の習熟の怠惰を戒めるためでなければならない。さもなければ、スケープゴート探しに終わるだけだ。

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by eric-blog | 2013-01-10 11:49 | ☆よりよい質の教育へBQOE
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