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構造なき暴政  Tyranny of Structurelessness 1/2

Jo Freeman aka Joreen

1970年1973年の論文の集大成として

女性解放運動が形を取り始めた頃、「リーダーのない」構造のないグループが、たったひとつとは言わないまでも、運動の主流の形となった。この考えの源は、ほとんどのわたしたちが、その中に取り込まれている過剰に構造化された社会に対する反応であり、構造によるわたしたちの人生の明らかな支配であり、その構造に対して闘っているはずの左翼や同様のグループにおけるエリート主義の継続であった。
「構造のなさ」という考えは、しかしながら、これらの傾向に対する健康なカウンター、対抗手段であるよりは、そのものが女神となっていった。このアイデアは、より使われれば使われるほど、点検されることなく、女性解放運動のイデオロギーのintrinsicで疑問を持たれることのない部分となっていった。初期の運動の発展においては、これは問題にならなかった。初期には、その主たる目標と、主たる方法論は、意識の向上consciousness-raising,にあるとされ、「構造のない」rapグループが、この目標のためには優秀な手段なのだと考えられていた。そのゆるやかさと、非形式的なところが、議論への参加をうながし、その支援的な雰囲気が個人の洞察を導いた。個人的洞察以上のものがこれらの団体の目標がそれ以上のものではなかったために、それでも問題はなかったのだ。
基本的な問題は個別のrapグループが、意識変革の価値を消耗してしまうまで、明らかにならなかった。この時点になって、組織の目標を変えても、その構造は変えたくなかったために、founderしてしまった。女性たちは、「構造のなさ」という理念を、その限界がなんであるかを気づくことなく、全面的に受入れたのだ。人びとは、その他の手だてはすべて抑圧的になってしまうのだという盲目的な信念によって、「構造のない」グループや非形式的な会合を目的を間違って使おうとした。
 もし、運動が、その発展段階の初期のステージから次へ行きたいのであれば、組織や構造についての思い込みから、自分自身の徒労をまねいてしまった。これらのことが本質的にまずいのではない。それらが間違って使われるが、間違って使われるからといって、組織の発展のために、使うことなく手放してしまうこともまちがいでする。わたしたちは構造のなさがなぜ有効に働かないのか、知る必要がある。

形式的、非形式的構造

 わたしたちが信じたいこととは逆に、構造のないグループは存在しない。どんな性格の集まりであれ、人びとが特定の期間、なんらかの目的であれ、集まれば、なんらかの組織化をするものである。構造は柔軟なものであるかもしれない。時間とともに変わるかもしれない。任務、権力、資源のグループの成員の間での配分が平等であるかもしれないし、不平等かもしれない。しかし、それらは、関わっている人びと、それぞれの能力、性格、意図とは無関係に形成される。わたしたちが個人であるために、わたしたちはそれぞれ異なる能力、傾向、背景がこれを不動のものにする。そのため、関わること、相互関係を持つことを拒否することでしか、構造がないことを想定できない。そして、それは人間のグルーブの性質に反する。
構造のないグループであろうとして努力することは、「価値観中立」な社会科学、「自由」経済などと同じように、有用であり、欺瞞的な「客観的な」新しい物語りを目指すようなものだ。「お気に召すまま」のグループは、「お気に召すまま」の社会と同じように、現実的だ。理念は強いもの、幸運なもののための煙幕となり、他の人々に対する疑問をはさむ余地のないヘゲモニーを築くことができるだろう。ヘゲモニーは、「構造のなさ」が非形式的な構造を作り上げることを阻むことがないために、あまりにも簡単に確立される。同様に、「レッセフェール」の哲学は、経済的に強力な人びとが、賃金、価格、商品の分配についてのコントロールを握ることを妨げなかった。政府がコントロールしようとすることを阻んだだけだ。つまり、「構造のなさ」は権力を覆い隠す(その力を握る側が意識しているといないとに関わらず)。グループの構造が非形式的である限り、意思決定がどのように行われるかのルールは、一握りの人間にしかわからず、力の自覚は、ルールを知っている人だけにしかわからない。ルールを知らない人びと、そこへのイニシエーションに選ばれなかった人びとは、混乱のまま、わけもわからずに何かが起こっていくパラノイア的思い違いに苦しめられる。
人があるグループに参加する機会を持ち、その活動に参加するためには、その構造が明確である必要があります。隠されているのではなく。意思決定のルールは公開され、誰に対しても明確である必要があり、それは、形式が決定されていなければ、起こりません。これは、グループの構造の形式化が非形式的構造を破壊すると言っているのではない。たいていはそうはならない。しかし、非形式的な構造が、支配的なコントロールを持ち、関わっている人びとが、グループ全体のニーズに責任がない場合、それを攻撃する手だてを得ることを阻むことができる。構造のなさというのは、組織的に不可能なのです。わたしたちは、構造化されたグループにするか、構造のないグループにするかを決定することはできない。ただ、形式的に構造化されているか、それとも非形式的であかるを決められるだけなのだ。ということで、この言葉は、それが代表している理念を表す以外では、使われることもない。構造化されていないという表現は、特定の方法で、意図的に構造化されてこなかったグループのことを示す。構造化されたというのは、構造をもっているグループを示す。構造化されたグループは常に形式的な構造を持ち、同時に非形式的なもの、あるいは隠された構造も同時に持っている。構造化されていないグループにおいてエリートの基盤を創り出すのは、この非形式的な構造なのである。

エリート主義の特性

エリート主義者は、女性解放運動の中でももっとも濫用されてきたことばだろう。それは、50年代にpinkoが使われたのと同じぐらいの頻度と理由で使われている。運動においては、それは個人に対して使われる、が、個人的キャラクターや活動は、かなり幅がある。個人は、個人ではエリート主義者ではありえず、特定のグループについてのみエリートという概念はあてはめられる。どのような個人でも、どれほど有名であったも、個人はエリートではありえない。
正しくは、エリートは、自分たちもその一部である大きなグループに対して力を持っている少数の人びとのグループのことである。そして、彼らは登場そのグループに対して責任は持たず、また、同意も認識もされていない。そのようなグループの一員となり、またそのルールを擁護することで、人はエリート主義者になる。その人が有名人であるかどうかは関係ない。知名度はエリート主義者の定義ではない。もっとも悪質なエリート集団は、大衆にはまったく知られていない人びとによって運営されている。知的エリート主義者たちは、彼ら自身が有名にならないことを選ぶだけの知性を持っている。というのも、知られてしまうと、彼らはウォッチされ、彼らの権力を隠すマスクがなくなつてしまうからだ。
エリートは共同謀議ではない。少数の人びとのグループが、集まって、意図的に、集団を自分たちの目的に向かってのっとろうとすることはほとんどない。エリートは、同じ政治的活動に参加することになってしまった友人仲間以上でも以下でもない。彼らはその政治活動に関わるかいなかにかかわらず、彼らの友情を維持するだろうし、友情を維持しようがしまいが、政治的活動に参加するだろう。これらの二つの事象があるグループの中でエリートを創り出し、壊すのが難しくなるだけなのだ。
これらの友情グループは、グループが創り出している定常的なコミュニケーションのチャンネルの外側でのコミュニケーションのネットワークとして機能する。コミュニケーションのチャンネルができていない場合は、彼らのコミュニケーションのネットワークだけが機能する。その人たちは友人なので、彼らは同様の価値観や方向を共有し、社会的にも連絡を取り合い、共通の意思決定がなされなければならないときに相談しあう。そのために、このネットワークをもっている人びとは、持っていない人びとよりも大きなパワーを持つ。そのような非形式的な、友人を通したコミュニケーション・ネットワークを持たないグループの方が珍しい。
グループによっては、そのサイズによるが、一つ以上の非形式的なコミュニケーション・ネットワークを持っている。ネットワークは時には重複する。そのようなネットワークが一つしかなければ、それなしでは構造のないグループのであるグループのエリートになる。そこに参加している人がエリート主義者になりたいかどうかは別にして。構造のあるグループにおけるたた一つのネットワークである場合、エリートになるかどうかは、構成と、形式的な構造の性質による。二つ以上の友人ネットワークがある場合、グループ内での力を争うことになり、派閥を生み出す。あるいはそのような争いから身をおこうとするならば、他のネットワークがエリートの座につくままにしてしまう。構造化されたグループでは、二つ以上の友人ネットワークが形式的な力を争って競う。これは健康的な状況で、他の人々は、この対立する二者のどちらに力を賦与するかを決定する立場にあり、一時的の信任を与えるかわりに、要求を出すことができるからだ。
まぎれもないエリート主義者と、友人の非形式的なコミュニケーションのネットワークの閉鎖的な性質は、女性運動の新しい現象でもなければ、女性の傾向でもない。そのような非形式的関係性は、何世紀にもわたって、女性を、彼女たちがその一部である統合されたグループから排除してきたのだ。どのよう職業や組織においても、これらのネットワークが「ロッカー室」精神構造と「出身校」の連帯を作り上げて来た。そして、女性を、グループとして(あるいは、特定の男性個人個人を)力の根源や社会的表彰へのアクセスから効果的に排除してきたのだ。女性運動のこれまでの多くのエネルギーは、意思決定の構造と選択の過程を形式化すること、そのことによって女性の排除と闘うことができるようにすることに向けられて来た。わたしたちがよく知っているように、これらの努力は、非形式的な男性だけのネットワークの形成が女性差別を行うことを妨げることはできなかっただけでなく、より難しいものにしただけだった。
エリートは非形式的であるからといって、彼らが見えないわけではない。どのような小さなグループにおいても、鋭い観察力をもっている人であれば、誰が誰に影響を与えているかわかる。友人グループのメンバーは、互いの間でより緊密にかかわる。互いの意見により耳を傾け、妨害することが少ない。彼らは、互いのポイントを繰り返し、共感的に同意する。彼らは、意思決定にはかかわらない「外側」を虫し、ばかにする。しかし、「外側」の人びとは、「内側」の人びとといい関係を続けなければならない。もちろん、ここにわたしが線引きしたほど、はっきりとしたものではない。彼らは、相互作用のニュアンスであり、あらかじめ書かれているわけではない。しかし、それらは判別可能であり、効果を伴っている。意思決定をする前に、誰にチェックしてもらう必要があるか、誰の承認が認め印であるかを知れば、誰が運営しているかがわかる。
運動団体は、内部において、誰が力を行使すべきかの具体的な意思決定をしていないので、多くの異なる基準が国中で使われている。ほとんどの基準は、伝統的な女性的特質のライン上にある。例えば、運動の初期の頃には、結婚は、非形式的なエリートに参加するための前提条件だった。女性は、伝統的に、結婚した女性同士で交わるべきであり、独身女性は友人とするには脅威なのであると教えられて来た。多くの都市では、この基準は、新左翼の男性と結婚している女性に限るとまで洗練されていた。この基準は伝統以上のものが背景にあって、というのも、新左翼の男性は運動に必要な資源へのアクセスを持っていることが多いからである。メーリングリストとか、メディア、連絡先、情報など。そして、女性は必要なものを、独立して得るというよりは、男性を通じて得ることが多かったのだ。運動が変化するとともに、結婚が有効な参加のための重要な基準であることが変化したが、すべての非形式的エリートは、特定の物質的あるいは人格的特性をもった女性だけが参加できるという標準を確立していた。それらの基準には以下のものがしばしば含まれていた。中流階級の背景(労働者階級に連帯するというレトリックにも関わらず)、結婚していること、結婚していないけれど、誰かと住んでいる、レズビアンであるか、気取っている、20代から30代であること、大学卒あるいはなんらかの高等教育の背景、”hip”であること、”hip”すぎないこと、「ラディカル」な政治的立場を保っている、子どもがいる、あるいは少なくとも子ども好き、子どもがいないこと、「感じがいい」というような女性的な資質を持っている、正しい服装(伝統的なスタイルか、あるいはアンチ伝統的)などなど。ほとんど、いつの場合でも、人を「変わっている」として、関わらないこととタグづけされる特質がはっきりしていた。それらには以下のものが含まれていた。高齢すぎる、フルタイムで働いている、特に「キャリア」に向かっている、「感じよくない」、はっきりと独身主義である。(積極的に異性愛主義者でもなければ同性愛主義者でもない)
その他の基準も入れられるが、共通のテーマがある。運動の非形式的エリートへの参加、つまり力を行使できる前提条件として求められる特質は、背景、個性、時間の掛け方などに関わるものがある。それらは能力や、フェミニズムへの熱意、技能、運動への貢献の可能性などは考慮されない。前者は、友人を選ぶ時の基準である。後者は、運動や組織が政治的効果をあげるために活用したいものである。
参加の基準が、グループの間で違っているが、非形式的エリートのメンバーになる手段は、これらの基準を活用しているのはほぼ同様である。たった一つの違いは、最初からそのグループにいるか、あるいは後から参加してきたメンバーかということだ。最初から関わって来たとすれば、自分の個人的な友人たちをできるかぎりたくさん参加させることだ。もし、他の人たちが互いをよく知らないとすれば、人は選ばれた人数の人たちと友情を形成し、非形式的な相互関係のパターンを確立しなければ、非形式的な構造の創造はできない。非形式的パターンができれば、彼らはそのグループを維持すべく行動し、維持するためのベストな方略は、「はまる」人を常に新たにリクルートし続けることである。そのようなエリートに参加する方法は、女子クラブへの入会と同じようなものである。入会可能性があると判断されれば、その人に対して非形式的なグループのメンバーが「アプローチ」し、はずすか入会を許されるかのいずれかになっていく。女子クラブがこのようなプロセスをとっていることについて政治的自覚がないとしても、プライベートなクラブに参加するのと同じやり方を外から入って来た人が開始することだろう。スポンサーを探す、つまり、エリートグループの誰か、内部で尊敬されている人を選び出し、その人の友情を積極的に育もうとする。そうすることで、彼女はあなたをグループ内サークルに入れてくれるだろう。
これらの手はずには時間がかかる。そのためフルタイムで働いている人、あるいは主要な責任ある関わりを持っている人は、意思決定に声をあげることができるために求められること、つまり、すべての会議に参加し、個人的関係を築くということができないために、参加することができない。意思決定の形式的な構造が働きすぎている人にとっては恩恵となるのである。意思決定のための確立されたプロセスが存在するということは、誰もがある程度は参加できるということなのだ。
小さなグループ内でのエリート集団の形成のプロセスを解剖することは、必要なことではあったが、これらの非形式的な構造が悪であるからという信念に基づいてのことではなく、単に避けられないことだからである。すべてのグループは非形式的な構造を、グループの成員間の関係性の結果として創り出す。そのような非形式的な構造は、有用でもありうる。しかし、非構造的なグループだけが、このメカニズムによってのみ統制されるのである。非形式的エリートが「構造のなさ」という神話と混合された時、権力の行使にどのような制約もかけることができない。とらえどころのないものになる。
このことは、将来的には二つの否定的な結果を導くことをわたしたちは認識しておくべきだろう。一つは、意思決定の非形式的な構造は、女子クラブと同じようなものになるということである。そこでは人びとが他者に耳を傾けるのは、彼らのことが好きだからであって、大切なことを言っているからなのではない。運動が、たいして重要なことをしているわけではないかぎりにおいては、これは問題にならない。しかし、予備的段階でつかまってしまわずに発展したいのであれば、考え直した方がよい。二つ目は、非形式的構造は、グループに対して責任をとる必要がないということだ。彼らの権力は与えられたものではないがゆえに、取り上げることができない。彼らの影響は彼らがグループに対して行われることに依拠していない。そのために、彼らはグループから直接的な影響を受けることがないのである。このことは、非形式的な構造を無責任なものにしてしまうというわけではない。彼らの影響力を維持したい人びとは、責任ある行動をとろうとするからだ。グループは、そのような責任を問われないというだけのことだ。エリートの側の利益に依存しているのだ。

「スター」システム

「構造のなさ」の理念が「スター」システムほ創り出した。わたしたちは政治的なグループに意思決定し、これらの決定を大衆に伝える人を選択することを期待している社会に生きている。メディアと大衆は個人の女性の声を女性のものとして真剣に聞く方法を知らない。彼らは、グループがどのように感じるかを知りたがる。塊としてのグループの意見を確立するための方法は三つして開発されてきていない。投票あるいは国民投票、世論調査、会合でのグループの意見を代表する人びとを選択する。女性解放運動はこれらの方法を大衆とのコミュニケーションの手段として使ってこなかった。運動全体としても、その中のグループとしても、彼らのさまざまなイシューについてのポジションを説明する手段を確立してこなかった。しかし、大衆は誰かが代表して語ってくれることを期待するように条件づけられている。
選ばれたのではないが、運動は多くの女性、なんらか大衆の目に留まった女性を壇上にあげてきた。これらの女性は特定のグループや確立した立場を代表しているのではない。彼らはそれを知っているし、またそうも言う。しかし、公的なスポークスパーソンがいないために、そして、意思決定の主体がないために、運動のポジションを知りたいとメディアが思ったら、これらの女性がその役割をすることを期待するのだ。そのために、望むと望まずとに関わらず、大衆の目に留まった女性は、デフォルトとして、スポークスパーソンの役割にはめこまれる。
これが「スター」とレッテルを貼られている女性に向けられる憤怒の主要な源である。彼らが運動の中野女性たちから運動の視点を代表する人として選ばれたわけではないために、メディアが彼らを運動の声を代表するものとして扱うと、それを憤るのである。しかし、運動がそれ自身の代表を選ばない限り、そのような女性たちがメディアや大衆によってその座につけられてしまうし、例えそれが彼らの意志に反していても、である。
これは、運動と、「スター」に押し上げられた女性の両方に否定的な結果をもたらす。まずは、運動がスポークスパーソンの地位につけたのではないために、運動は彼らをその地位から降ろせない。メディアが彼らをその地位につけたのであり、メディアだけが聞かないことを選択できる。メディアは、運動の公的な代表が権威ある声明を出さない限り「スター」を求め続ける。運動は、運動の代表を持つべきではないと考える限り、大衆に対する彼らの代表を選ぶことをコントロールできない。二つ目に、この地位につけられた女性たちは、姉妹たちから悪意のある攻撃にさらされることになる。これは運動になにももたらさない。そして、関わる個人個人にとっては破壊的である。そのような攻撃は、女性が孤立化した結果運動を去ることになるか、あるいは「姉妹たち」に対して責任があると感じることをやめるかという結果になる。彼女は運動に忠誠心を保ったとしても、それは漠然と定義されたものであり、それをどう考えるかについて、運動の中の他の女性たちがどう考えるかからの圧力に影響されなくなる。人は、マゾヒストでもない限り、自分に苦痛を与える人びとに対して、責任感を保つことはできない。そして、スターの座にあげられる女性たちは、たいてい、個人的な圧力に屈するには強すぎるのだ。そのために、「スター」システムに対するバックラッシュとして効果をあげるのは、運動が批判して止まない個人的無責任さそのものを奨励することなのだ。姉妹を「スター」としてパージすることで、運動は、個人に対するコントロールを失い、その人を弾劾する原因であるまさしくその罪へと、自由に足を踏み入れられるようにしてしまうことである。

政治的インポテンツ

構造化されていないグループは、女性たちが自分たちの人生について語りやすくしたかもしれない。しかし、ものごとを成し遂げるのはうまくない。人が「井戸端会議」に終わることに疲れて、それ以上のものを求めようとするとき、グループは、やり方を変えない限り、まごついてしまう。時には、グループの発達した非形式的構造が、グループが構造なしでもうまくいくというような見かけを保ってしまう結果になる。つまり、グループは、特定のプロジェクトに関わるのに最適な構造を、偶然にも持っていたということだ。
このような種類のグループで働くことは、頭の痛い体験であり、また稀なケースであり、まねすることは難しい。そのようなグループには、以下のような四つの条件がある。

1)タスク中心であること。グループの機能は狭く、特定である。会議の実行や新聞の発行など。タスクがグループの構造を決定する。タスクがなされるべきことを決定し、時期を決める。人びとがそれぞれの行動を判断し、これからの活動を計画するためのガイドとなる。
2)比較的小さく、同質性が高い。同質性は、参加者が相互作用のための「共通言語」を持つために必要である。幅広い背景を持つ人びとは意識向上のためのグループにおいては、互いの経験から学ぶ豊かさになるが、しかし、多様性が大きすぎると、タスク達成を求めるグループにおいては、互いの五回ばかりが続くことになる。そのような多様な人びとは、ことばや行動を異なって理解するものだ。彼らは互いの態度について異なる期待を持ち、その結果を異なる判断基準にしたがって評価する。もしも、全員が互いのことをニュアンスのちがいについても理解できるほどよく知っていたら、なんとかなるかもしれない。通常は、彼らは混乱し、誰もが思いもかけなかったような対立を成城かするのに、延々と時間を使い続けることだろう。
3)コミュニケーションの度合いが高い。情報はすべてのメンバーに伝えられ、意見が聞き取られ、仕事が分担され、関係する意思決定では参加が確保されている。これは、もしグループが小さくで、人びとがタスクの肝心なところではほとんど生活を共にしているような状況でのみ可能である。家までもなく、すべての人を巻き込むために必要な相互作用は、参加者の数が多くなれば、幾何級数的に激増する。このことによって、グループの参加は否応なく5人程度に制限され、あるいはいくつかの意思決定からは何人かが外されるということになる。うまくいっているグループは、10人から15人程度でも可能であろう。しかし、彼らが事実上、いくつかのサブグループに分かれて、特定のタスクを執行しており、また、そのサブグループのメンバーが重複していることで、別のサブグループが何をしているか知ることができる。
4)スキルの専門性の程度が低い。すべての人がすべてのことをする必要はないが、すべてのことが一人以上の人によってなされる必要がある。そのために、誰一人として不可欠というわけではない。ある程度まで、人びとは、入れ替え可能な部品になっている。
by eric-blog | 2012-08-08 17:48 | ■週5プロジェクト12
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