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複雑さを生きる やわらかな制御

複雑さを生きる やわらかな制御
安冨歩、岩波書店、2006
1850冊目

生きるということは複雑な機序が働いて成立しているのだ。

しかし、「われわれはものごとを細切れにしてしまうことに慣れ切っている」というところから、この本は始まる。100個の部品からなる機械をバラバラにするのは簡単だけれど、それを組み立てるのは難しい。ものごとは動いていることに意味があり、止めて理解することはできない。

情報というのは
A difference which makes a difference.
ちがいを生むちがいを知ること。

ものを知るという過程には、もの自体が持つ無限の可能性としての差異の中から、少数の差異を選択することが要求されている。15

ランダムな中から「知る」あるいは「知らないこと」を探求するというようなことが可能になる、つまり「わたくし」の立ち上がりを、複雑系科学の知識から紹介しているのが第一章「知るということ」。

第二章「関係のダイナミクス」では、「わたし」と「あなた」の関係、そして社会が創発されるダイナミクスが解きほぐされて行く。

「社会というシステムは、人びとのコミュニケーションを要素として創発する構造であるが、それが人びとの外部として成立することにより、ハラスメントを惹起する作用がある。社会という外部がもたらす規範は、自己の中に外部を取り込む必要性を生み、それが本来の自分のダイナミクスの豊かさを抑圧することになる。この抑圧が憎悪を餌とするハラスメントの契機となる。」58

二人の間のコミュニケーション

まずは、相手が自分と同じような世界を持っている、と信じ込み、なんらかの動きを示すという賭けに出なければならない。

この賭けをうまくやる技芸とは、自分の出会う相手についての「理論」を形成することである。

このような信じ込みはつねにそれを悪用される危険をはらんでいる。このような悪用をここでは「ハラスメント」と呼ぶ。

信じ込みで、なんらかの動きをするという賭けにでる。「あなた」はそれと同じことをしているフリをする。そして、「わたくし」が「あなた」につてのある理論を形成しかかったその瞬間に、「あなた」は思いもかけない行為を見せ、「わたし」を混乱させる。

理論を形成しようとする努力、学習の努力を水泡に帰させることが、「ハラスメント」である。74-76

ハラスメントの加害者は決して反省などしない。
ハラスメントを受けやすい人は、罪悪感の強い人。

指導教官がやっていることは、ほとんどハラスメントである。歴史資料を一文字一文字ゆるがせにせず、読ませるトレーニングをし、学生がその技術に自信を持ち出すと、「字面に引きずられてどうする」と叱りつける。字面を離れたら「資料をいい加減に読むな」としかる。87

その混乱の中から思考レベルの跳躍を果たせれば、それは大きな成長である。

しかし、この関係は、このトレーニングの先に真理があるという信頼がなければならない。

ハラスメントはおこりうる。コミュニケーションはハラスメントから完全に自由になることはない。根絶することはできない。自分の周辺の関係のなかに蔓延することを阻止せねばならない。・・人間が生きるために学ばなければならない最も重要なことである。95

「個人と個人が向かい合った時に双方が両すくみから抜け出すとともに、社会が必要とするコミュニケーションの産出を保証するものが規範である。そして規範に沿ったコミュニケーションの産出が規範を創出する。」103

規範なしでコミュニケーションを始めるのは難しい。それゆえ、規範が自己に埋め込まれる。取り込まれた規範が「自己の中の他人」となる。それが「本来の自己を自分のなかの他人」(103)にしてしまうと、著者は言うが、自分の中に他人が入っただけで、本来の自己の方が、他者化されてしまうという機序が理解できない。どこか病的だと思うのは、こんなところかなあ。

「コミュニケーションが成り立つ場合には、規範を手がかりとして人びとが本源的な「両すくみ」を学習ダイナミクスの作動によって解消していることを忘れてはならない。このダイナミクスがやせ細る時、社会は自律的な回復力を失う。」

つらいなあ。子どもは、いつでも笑っていて、こちらの笑顔を誘い出す。笑ってあげると、満面の笑顔を返してくる。そのあたりのことは、安冨さんの機序には出てこないんだよね。

第三章「やわらかな制御」

システムをどのようにコントロールするか、それは責任概念だという。しかし、

「全体がうまくいっていないときには責任概念は大きな危険を孕む。ものごとがぜんたいにうまくいかなくなった場合には、あちこちで紛争が生じる。そのたびに責任者が追求されて紛争は一応決着するが、問題が頻発すれば対策をたてる必要が出る。そのような場合に人びとは、責任体制が不十分だからいけないのだ、と認識しがちである。すると、過程をより細かく分割し、どの箇所が誰の分掌であるかを明らかにし、その職務の遂行を監視するための制度を設け、評価や報告をより詳細にすることで問題を回避しようという対策が立てられることになる」137


まさしく、いま学校で起こっている「いじめ問題」の対策がそれだなあ。

「この対策はしかし、紛争を拡大する可能性が高い。なぜならより細かく職務を規定さる、監視される人びとは、責任を追わされることに怯え、縄張りに敏感になり、評価報告のための業務に謀殺されるようになって、実際には最も重要性の高い組織外部とのコミュニケーションを放棄するようになるからである。すると全体の進行はさらに悪くなり、紛争とさらに頻発し、さらに細かい管理が行われ、という悪循環を辿ることになる。」137

コミュニケーション・ネットワークの修復活動を展開する上では、やわらかな制御の発想が不可欠である。143

コミュニケーションの滑らかさを実現して魂を入れるためには、「責任」の概念を「原因→結果」の枠組みから解放する必要がある。

アルノ・グリューンは、責任を引き受けるとは、他の人に痛みや苦しみを与えていると認め、その痛みを感じ、自己を変革することだとする。

その感受性は五指の感覚を信頼するところからくる。

そして、「自分のなかの他人」と、自己の感覚をしてしまった人は、他人の痛みを認めることができなくなる。

同乗や細やかな神経を投げ捨て、世間に順応することだけを考え、自分の役を上手に演じ、人から褒められようとする人は、自分の苦痛も他人の苦痛も感じなくなる。痛みを感じない人が責任をとることはありえない。144

このあたりの描写になるとうまいよなあ。続いて引用します。

規範に基づいて構築された人格は動きがぎごちなく、もろくて崩れやすい。罪を認めることで崩壊してしまいかねない。

罪を認めるためには、自分の行為は間違っていたとしても、人格が否定されるわけではない、という確信を持てなければならない。

真の意味での責任は、つまるところコミュニケーションにおける学習過程を作動させるということと等価である。

自分の感覚への信頼と学習過程の作動に裏付けられたとき、はじめて責任をとることができる。

うーーん、自己への信頼というのがなかったことを発見したことがないのでよくわからない。そんなに人は、世間を自分の中に取り込んで生きているものなのかなあ。
by eric-blog | 2012-08-07 17:52 | ■週5プロジェクト12
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