ERIC NEWS 284号 202020第三号

来週末は出張なので、急遽、今週に出すことに。
学習からの逃避、高等教育からのドロップアウト。いかに教育内容や教育にかかわる人々の
姿勢そのものが、学習者の関心やニーズから遠ざかっているかだ。学習者の関心やニーズに
こびろなどと言っているのではない。そこからどこへ共に行こうとしているかが、希望となるか
学び続ける意欲になるかの根源なのだと言いたい。言葉足らずでした。また、次回の202020!で。

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ERIC NEWS 284号 ともによりよい質の教育をめざして  
202020第3号 学級人数の削減を
これからの未来へ いまのリアルを取り入れる
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(文責: かくた なおこ 角田尚子
http://ericweblog.exblog.jp/
twitter : kakuta09  FBも)

1974年、EIU国際理解教育についてのユネスコ勧告。
1989年、ERIC設立
2004年、国連ESDの10年始まる。
2014年、ERIC設立25周年、ESDの10年最終年。

ERICがESD指導者育成に取り組み出したのは、2000年からですが、ESDは1974年のユネスコ勧告で提唱された「国際理解教育」の延長上にあると、理解しています。教育目標においては何も違わない。「人類共通の課題に気づき、協力して問題解決を行う」人材育成。

何が違わなければならないか、その後の取り組みの現実が違わなければならないのです。あたかも一つの教科の導入、あたかも追加的な学習活動、記念日というような導入のレベルに終始した現実が、変わらなければならないのです。

ERICの教材では、オーストラリア、ブリスベン大学のジョン・フィエン氏の「4つの教育は一つ」という枠組みを、よく引用させていただいています。環境教育、人権教育、平和教育、開発教育は、それぞれ「○○について教える」では、異なる内容をカバーするけれど、それを支える「気づき」「態度・姿勢」「行動」においては共通するものをもっている、従って、それぞれの教育は狭義では異なるが広義においては同じであるという整理です。

広義の意味では、ESDとは、これらのテーマを包括し、「気づき・態度・姿勢・行動」においては、共通の目標を持っているものなのです。

この共通の目標の部分が、どの教科においても、どの教育活動においても、どのような対象に対しても、どのような教育的な機会においても、共通の教育目標として取り組まれる必要があるのです。それが「あらゆる機会における、あらゆる人々との」ESDということです。

「○○について教える」という部分では、持続可能性、環境、人権、開発、平和などの「内容」を扱う時間や教育活動を確保する必要があるでしょう。しかし、これらは、「全部」「少しずつ」「羅列的に」取り扱われるべきではなく、これらの課題は「つながっている」ということの理解に至るような形で、取り扱われるべきものなのです。すべての課題は、つながっているからです。(1977年トビリシ宣言参照)

今回、TEST教育力向上講座 in 大阪で、キーパーソン・インタビューを行った時、金城馨さんが、高校時代の思いを語ってくれた。沖縄出身という自分自身の問題と向き合うことなく、部落問題研究会に参加し、自主ゼミでそのことを突きつけられたこと。生徒主体の自主ゼミは、その後も続いたが、受験中心へと変質していったこと。1970年代のことだ。学生運動が活発な高校の管理職が飛ばされ、教育委員会直轄となり、教頭があたかも労務管理のように、生徒たちを懐柔して行った記憶も、生々しい。
http://ericweblog.exblog.jp/15199798

学生運動による自主ゼミは、自分たちの問題を学ぼう、行動しようと、高校でも、大学でも行われていたのだ。

しかし、1970年代に環境問題が、1980年代に南北問題が、大きく取り上げられた大学の学部・学科で起ったことは何だったのか。それぞれの問題の「専門化」でしかなかったのではないか。

1.大学における教員養成課程を変える
2. 学校における学級人数などを、推進校並みにする
3. 教師の教育に対する価値観を変える

というようなビジョンを、その運動の中で共有していくことができなかったのだろうか。

今回、202020の第三回は、
1.「学習からの逃避」と高等教育修了率の低さ
である。

1980年代、高校への進学率が9割以上に、そして大学への進学率が3割を越えた時、教育は「エリート」のためでも、「専門家」育成のためでもなく、ユニバーサル教育、すべての人のための教育とは何かという課題に応える必要が生まれていた。それが、アメリカでは、「中等教育は高等教育進学のための下請けではない」という「教育の人間化」の運動となった。

日本では、その問題意識は弱く、学生運動の衰退、主要テーマの「主流化」(といっても追加的な科目、学科の創設でしかなかったわけだが)によって、教育改革は進まないままに過ぎる。「ゆとり教育」「総合学習」も、教育内容の削減と、追加的な科目の扱いにしかすぎなかった。

ここまでくれば、問題提起3「「学習からの逃避」と高等教育修了率の低さ」の理由は明白であろう。中等教育における教育内容が、「高等教育」の下請けでしかないこと、そして、高等教育が専門分野に向けて選抜的であること。

なぜ、本質的な変化が起らなかったのか。これは、まだ、答えを探っている。過去のためではなく、未来を築くために、「なぜ」を問いたい。いま、わたしたちが起こそうとしている変化が「本質的」なものであるために、「なぜ」を問いたい。

TEST in 大阪2012での、もう一つの共有は、「学習指導要領体制」であった。既存の学科科目の体系が強固に維持された中での改革でしかなかったと。


もう一つの仮説は、「東大話法」から浮かんで来た。江戸時代に徹底された「役」感覚だ。なぜ、人は、「何者か」になりたがり、自分自身をまず生きるということから逃げたがるのか。学生を見ていても、不思議なほどだった。資格をとるのも、何者かになるため。自分であることの不安なのか?

だからこそ、運動をしていた人々も、「何者かになる」ことを求め、追加的テーマの学部に就職し、専門分野を確立していっただけに終わったのではないか。

学生運動を担った人々は、「役」に吸収されていっただけなのか。

市民性教育とは「コミュニティ意識」「社会問題への関心」「政治的リテラシー」だという。いま、コミュニティでのエネルギー政策など、コミュニティ単位でのローカルな持続可能性が提起されている。日本において、コミュニティと「役」は切り離すことができるのか。市民性が欠如したまま、地域共同体に戻るだけであれば、市民性は育たないのではないか。

近代教育は、個人を地域共同体から切り離すためのものであったことを考えると、教育は、さらに重層化するだけでしかないのだろうか。

共に考える、もうちょっと考え続けるための「単位」として、学級人数20名を達成してみよう。教育とは何か、にせよ、わたしたちはどこに行くのか、にせよ、持続可能性とは何かであれ、共に考えるためには、適切な人数がある。

それが202020の仮説であり、教育の重層的な課題を抱えつつ、よりよい質の「共に考える」「共に生きる」ことを学ぶための環境整備として、実現に協力できるものなのではないだろうか。

2012年ERIC主催研修
ESDファシリテーターズ・カレッジ
1.テーマ「環境」/PLTファシリテーター養成講座「リスクに焦点」 2012年6月23-24日
2. テーマ「国際理解」 2012年7月21-22日
3. テーマ「人権」 2012年9月29-30日
4. スキル「対立」 2012年10月27-28日
5. スキル「市民性」 2013年1月26-27日
6. スキル「TEST13 Teachers' Effective Skill Training 教育力向上講座 
  2013年3月

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by eric-blog | 2012-05-07 07:46 | ERICニュース | Comments(0)
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