学校における持続可能な発展のための教育(ESD)に関する研究[最終報告書]

学校における持続可能な発展のための教育(ESD)に関する研究[最終報告書]
平成24年3月、国立教育政策研究所

www.nier.go.jp/kaihatsu/pdf/esd_chuukan.pdf

彼らは、学ぶということをしないのだろうか。デジャブ、既視感がくるくる巡る。環境教育についての取り組みとまったく同じだ。

いわく、「多面的、総合的に取り組み・・・・よって、学校においてESDを推進するには、特定の教科等を設けて実施するのではなく、既存の教科等に組み込む」(第一章第一節 上から二行目から五行目)

これを読んで、その先を予測し、理解できるのが、人間の脳の優れた力だということすら、彼らは理解していないに違いない。ずらずらと並べられていた小学校、中学校、高校の先生方が、この研究会でどのような役割を果たしていたかも、目に見える。枠組みを検討するのではなく、枠組みが与えられた中で、教案の提出をお願いされたのだ。環境教育がびくとも進んでいない学校の現状をヒヤリングされることもなく。

ゆとり教育から基礎基本に学校が立ち戻ったおかげで、総合的な学習内容と位置づけられていた環境教育がどれほど学校に入り難くなったかは、この間、「環境教育等促進法」意見交換会 in 東京 2012年3月23日
での、環境カウンセラーの人たちの発言からもよくわかるはずだ。
http://togetter.com/li/278437
平成15年に制定された「環境教育推進法」が、9年たって改正された。その骨子は、人材育成の強化とコーディネーターの存在だ。

その環境教育の取り組みからは何も学ばずに、ESDについて、「特定の教科を設けるのではなく」というところから再度はじめるのである。たぶん、彼らの研究課題が、「環境教育に学び、それを発展させる」というものではなかったからだと思われる。枠組みってこわいなあ。

横断的な内容とするために、特色としては「教材のつながり」「人のつながり」「能力のつながり」を強調していること、諸外国の例にならって、「押さえたい概念」「つけたい能力」のマトリクスに従って、教案に重み付けをし、また、児童生徒のパフォーマンスも評価しようとしていること。

授業で、勝負。そして、それは、すべての教科、単元、教育活動で可能であることが、圧倒的な教案の実践例で証明された! そして、研究指定校での実践、校内研修も行った。

しかし、そのような実践をすべての教科実践、すべての教育活動実践にひろげるにはどうするのか、学校全体で取り組むために、教員にはどのような力が必要なのか、学校内での「人のつながり」、地域との「人のつながり」はどうなっているのか、わからない。なんてことを批判しても、痛くも痒くもないのが、研究者なのだから、困ったもんだ。文科省のまだらめさん。

そして、この実践が、学校現場に「追加的な課題」を投げ込むことだけは間違いない。ESDは追加的な課題ではなく、教育変革を求めているのに。である。

教育は、わたしたちの社会の生き残りのためのもの。その心構えが、いまの学校にあるのだろうか。あるのであれば、ならば、どうする、どう変わる?

わたしたちは変わらなければならない。「制度による学び」の自覚、「脱学習」の課題、学校で教えている「概念や価値観」に対し、生徒が社会で学んでいることから来る「バリヤ」、そして、学校という装置そのものが持つ「隠されたカリキュラム」。すべて、1970年代には指摘されていた問題ばかりだ。40年たっても、学校の教員には、そんなことを考える力はない。そんな思い込みが聞こえてくるような研修センターでの教員研修例ではある。研修も、授業案の検討に終始しているのである。

ESDとは、教育という権力の側が、「降りて行く」改革なのだ。さらなる「よろい」で装備することが求められているのではない。現場に知恵があるはずだ。

教師力ではなく、教育力が求められている。コミュニティとして、生き延びる力をつけるには、そのコミュニティが生き延びる力を発揮できている中でこそ、学ぶことができる。
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by eric-blog | 2012-04-25 13:04 | ☆よりよい質の教育へBQOE | Comments(0)
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