加害者は変われるか? DVと虐待をみつめながら
信田さよ子、筑摩書房、2008
『パパと怒り鬼』の後書きの著者。
DVの被害者支援にかかわりながら、「保護」が答えではない。加害者が変わらなければ、加害者の元に留まる被害者のためにはならない。
軸足は「被害者支援」。被害者を攻めることはない。その立ち位置からしか、被害者支援を行うことは行えないと。しかも、加害者更生プログラムも平行して行うことはできない。
DVを行う男性は、「妻が言うことを聞かないから」と自分を絶対善、正義だと信じて疑わない。らしい。結婚観がそもそも違うのだなあ、とあきれてしまった。結婚前の時期には、それがわからないのかなあ。
そのDVの前に、「被害者だと自分のことを認めたら、負けたことになる」という感覚を持つ人もいるという。夫婦は勝ち負けなのか?
今日の「朝いち」はスウェーデンに学ぶ「子どもをたたかない育児」。1979年、『長靴下のピッピちゃん』の著者、リンドグレーンの訴えが社会的変化をもたらしたという。すごいことだ。
子どもに対して暴力以外の方法があるのだということを、モデルとして示す。
そのためにも、親が子どもをたたいてしつけることは、悪いパターンを見せていることに他ならない。
そのような内容なのだが、柳澤さんというキャスターのコメントがひどかったなあ。「親にゆとりがない日本では無理」とか。そうなのかなあ。同じコメントでも「働く子育て世代に対する理解と支援が必要ですよね」と言えないのか!
一人子の育児は大変なことはまったくなかったので、よくわからないけれど、基本的に子どもは他者。他者との共存に暴力は要らない。男の子三人、とかは大変なのね。きっと。
著者はいう。男女の間に、肉体的物理的格差、経済力格差は存在する。その格差を前提に関係をつくろうとする時、体格で勝るものは暴力をふるってはならない。経済的優位にたつ側は「だれが養っていると思っているのだ」というような経済的な脅しにつながる発言をしてはならない。ということを大前提にすべきだと。対等さはそのような条件の上に成立する、と。
さらには、親と子どもの間にも力の格差が存在する。その力の格差をしっかり認識した上で、関係をつくる必要があるのだと。
日本では、まだ「裁判所命令」によるDV加害者更生プログラムの履修義務ない。DVは犯罪ではあるが、親告罪にしかすぎない。親しい間での暴力を容認する文化が、まだまだ日本には根深いと思い知らされる。
阪神淡路大震災の時の性暴力のレポートは、いま、被災地における女性支援を考える上で大切だ。表に見えているものだけではないのだ。