松本サリン事件

63-2(288) 松本サリン事件
虚報、えん罪はいかに作られるか
河野 義行、近代文芸社、2001[北区]

思い出したが、以前にもこの本を手にしたことがあったのだ。河野さんの人物像が、わたしの中に結ばれる前に。改めて読んでみて、AERAに紹介された人物像や、『日本国憲法の逆襲』などの対談から見られる人物像の方が、はるかにおもしろい。本人が書いたものは、なぜか、面白みも説得力もない。なぜだろうか。

信頼というのは、本人が何をどう言うというのとは別のところに存在するのだと思った。河野さんが勤めていた会社の人々は、終始、彼を支援しているし、そして休職後の復帰も認めている。会社の人々が信頼をいだくに至ったたくさんの事柄、言葉や行動に表される河野さんの価値観、仕事に対する姿勢や進め方、そのような膨大な何かを、自分が短い言葉で表現することはできないのだろう。それは例えば、池波風に言うならば「河野は、信のおける奴だ、ということで通っている。何をやらせてもきっちりやるし、約束したことはたがえたことがない。みてっくれや、半可なことで、人のことを悪しげに言うなぞという無駄口もたたかないが、人を見る目はしっかりしている。そんな奴が、である。」というような数行で描き出すことができる人物像が、本人の言葉からはそう易々とは浮かんでこないという不思議。

感情的にならないからでもあろう。「怒りで身がふるえた」とでも書いてくれれば共感しやすいものを、河野さんは、「逮捕があるかもしれないというので、それを想定して準備をした」となるし、「もし、賠償しなければならないいけないことになった場合、自分の財産では足りないかもしれない。無一文になることも覚悟した」となる。

確かに、このあたりに、人物が浮かぶのだが、『少年Aを産んで』ほどにおたおたとしていてすら、「ああ、そんなものかもしれないな」と共感できても、「うっへー、河野さんってめちゃしっかりしているう。あたしには無理」「これほどしっかりした人を、冤罪に陥れようとするなんて、警察もどじなことだな」という感想に走ってしまう。

そして、また、この落ち着きと、異質さが、警察官の何かを狂わせたのだろうなとも思ってしまったのでした。自分のことなのに、人事と同じ冷静さで考えることができるということが。だからこれが「虚報、えん罪はいかに作られるか」のケースとして、そうだな、と思えない気持ちが残る。確かにマスコミの怖さ、そしてそれを知った上での巧妙な警察の情報リークによる世論操作はわかる。しかし、「河野さんが犯人ではありえない」という物証があがっても、「犯人だ」という捜査の思い込みが訂正されることがなかったことの原因がどこにあったのか、釈然としないのだ。書くということは難しいものなのだな。
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by eric-blog | 2004-11-10 08:36 | ■週5プロジェクト04 | Comments(2)
Commented by びっくり at 2004-12-13 20:24 x
http://www.janjan.jp/living/0410/041028119/1.php
河野氏の「今」
Commented by eric-blog at 2004-12-14 14:03
なるほど。厳密にものを言う人のvulnerableなところは、次のような点であるということができますね。
・発言が厳密なので、どのように短縮しても元の発言の趣旨は曲がってしまう。
・そのためにどちらのサイドからでも引用されてしまう。
・しかも、自分の言葉がマスコミに載るときの長さを想定したもの言いを自分に許せない。
本人は大変だと思っていないと思いますが、大変ですね。
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