仏教、イスラム教、キリスト教など、さまざまな宗教的な背景の人々に配慮し、集った
東日本大震災のための追悼式を、見ました。宮沢賢治の「雨にも負けず」が英語で
朗読されるなど、心に沁みる場面でした。
http://www.nationalcathedral.org/exec/cathedral/mediaPlayer?MediaID=MED-54QUO-5B000K&EventID=CAL-54JA4-KF001B
読まれた宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の英文は、こちらのものでした。
http://www.manitobabuddhistchurch.org/jodoshinshu/unbeatenbyrain.html
「黙祷!」って、嫌いなんだよね、とつぶやいていた、自分自身の違和感がどこにあったのか、
ヒントがあった気がしました。宗教的な背景の多様性に対するセンシティビティがない。
そして、何よりも、二文字漢語のもっている「命令口調」。
起立!敬礼! などに従わされて行く「からだ」を作られて行くのが、いやなのです。
「被災地の人々の安全と、安心が取り戻されるように、祈りの気持ちを共有し、
わたしたちが、失われたいのちを忘れずに、これからをていねいに生きて行く」
簡単な、切り口上に頼らないことで、自分自身の心にも迫れると思いました。
ていねいに、子どもたちの「追悼」の心を掘り起こし、ずっと、「忘れない」ために
できることを、工夫してみたいと思います。
復興もそうですが、追悼の気持ちも、どこかの地域、人に、こだわって
「アダプト」してみませんか? まだ、それだけのゆとりがないかもしれない、
その人たちに向けて、
この震災を受けて、自分たちがどのような日常を生きているかを伝えるための
「環境交流箱」を準備してみるとか。
顔の見える、ご縁が続く、そんなきっかけになるといいですね。