賢帝の世紀 ローマ人の物語IX

61-7(276) 賢帝の世紀 ローマ人の物語IX
2000年

長編小説は本当にやめられない。
紀元96年にドミティアヌスが殺され、ネルバァが登場すれる。さらにはドミティアヌスは「記録抹殺刑」で断罪され、その15年に及ぶ治世の業績はすべて抹消されてしまう。そんなにひどいとも、前巻を読んで思わなかったのに、?である。五賢帝の一人と言われるハドリアヌスも、死後元老院によって「記録抹殺刑」を主張されたというのだから、元老院が本当に政治的には硬直してしまっていただけなのかもしれない。
70歳のネルヴァはトライアヌスを養子にする。
ドミティアヌスの不評はダキア戦での不名誉な講和による決着があった。トライアヌスはダキア戦を「勝つ」と決めていた。

皇帝とは、究極の公僕であった。「皇帝の資産をわれわれは、あたかも共同所有権をもつかのように使える一方で、われわれ個々人の私有財産権は完璧に保証されている。」43
また属州に対しては「自然はどこにも均等な恵みをもたらすわけではないから、助けを必要とする地方に援助をするのは当然である。」46
皇帝の職務とは、安全保障、内政、そして公共事業の3つだという。トライアヌスは拡大した帝国で空洞化しつつあったローマへのてこ入れ政策もうつ。

一方で、ダキア戦に向けて、攻略のためのインフラ整備を進める。そして、トライアヌスはダキア戦に勝ち、ドナウ河に「トライアヌス橋」が残り、そしてローマ帝国はドナウの北側にも広がり、帝国最大の規模になる。
ダキアはローマの属州となった。現代のルーマニアは、このとき総入れ替えされた住民の混合体である。107
紀元107年から112年は、公共事業ラッシュ。活躍したのはギリシア人の技師たちだったという。
皇帝本人はというと私生活は地味。60代になってからのパルティア遠征の途中で64歳でなくなるまでの20年間の統治は、すこぶる評判のいいものだったのだ。
次に指名されたのがハドリアヌス。トライアヌスがその10歳の時から後見人を務めていた。皇帝になったときは41歳。
もう一人の後見人が、ハドリアヌスの命令を極端に執行して、執政官4人を反逆罪で殺してしまう。そのことに対して、ハドリアヌスが言ったこと、考えたことが『ハドリアヌスの回想』に記されている。それを読んで驚くのは、非常によく歴史を学んでいるということだ。カエサルから150年、皇帝とはどのようにあるべきか、継承された上でのこの五賢帝時代なのだなと思う。213
ハドリアヌスは21年の治世のうち、7年しかイタリアにいない。属州出身のこの皇帝はほとんどを属州の巡行に費やしたのだそうだ。
その事業の中のひとつがブリタニアにおける「ハドリアヌスの壁」の建設だ。
そして、蜂起したユダヤ人に対してイェルサレムからの完全追放。ユダヤ人がイェルサレムにある限り、政教一致の政体への夢、つまり彼らの言うところの「自由」への欲望から自由ではありえなかったからだ。

晩年気難しくなったハドリアヌスは、最初に指名した後継者の突然の死に見舞われたあと、アントニヌス・ピウスを養子にする。この皇帝の就任にあたって、ギリシア人の哲学者アエリウス・アリスティデスが行った講演が有名らしい。
361「かつてホメロスは謳った。地上はすべての人のものであると。ローマは詩人のこの夢を現実にした。...帝国のどこに住もうとも、行き来が容易になるように整備した。しかもそのうえ、帝国全域のための防衛体制を確立し、人種が違おうと民族を異にしようと共に生きていくための法律を整備した。これらのことすべてによって、あなたがたローマ人は、ローマ市民でない人々にも、秩序ある安定した社会に生きることの重要さを教えたのである。」講演者は26歳であったという。
トライアヌス「至高の皇帝」
ハドリアヌス「ローマの平和と帝国の永遠」
アントニヌス・ピヌス「秩序の支配する平穏」364
23年にわたるアントニヌスの治世は平穏そのものだった。
皇帝が公僕中の公僕であったというエピソードに、妻がケチぶりを非難したときに言ったという言葉があげられている。「帝国の主になった今は,以前に所有していたものの主でさえもなくなったということだ」368
こんな皇帝が続いたら、ローマ市民はラッキーだね。
そして、このようなローマがいかにして「キリスト教国」に、そして政教一致の国になっていくのか、と先を知りたいわたしに、塩野さんは、「あんた、まだローマのことわかってないわよ、落ち着きなさい」とだめだしするのです。第10巻「すべての道はローマに通ず」はなんと、ローマ帝国のインフラについてのみ捧げられた巻なのです。
もう、ついでに紹介してしまう。
ハード面
・街道、・橋、・港、・神殿、・公会堂、・広場、・劇場、・円形闘技場、・競技場、・公共浴場、・水道
ソフト面
・安全保障、・治安、・税制、・医療、・教育、・郵便、・通貨、弱者救済、育英資金、医療、教育

ところが、これらについての詳細はすでに研究されているにもかかわらず、専門分化のおかげで、誰もがその総体を描き出そうとはしない、そこで、塩野さんは、一冊をそのようなインフラの総体を描き出すことに捧げる決意をしたという。本当にわかりやすい解説である。それはその解説が「人間が人間らしい生活をおくるためには必要な大事業」というローマ人のインフラについての理念に貫かれているためなのである。

いまに残るアッピア街道。道路網は残っているが、形となると公園のように象徴的に、しかも、かつての姿を思わせるものはなにもない、らしい。39紀元前2世紀に建設され、紀元6世紀にもまだその完璧な姿をとどめていたらしい。紀元6世紀とは、紀元538年とは、ローマのインフラに何が起こった年なのだろうか?キリスト教化していたビザンチウム帝国か?
【道路と橋】81
公道、軍道、支線、私道がある。公道は8万キロ、すべて合わせると30万キロの道路網。
【カエサルの情報伝達方式】90
駅伝方式で、ステーションを置く。情報伝達を任務とする軍団を組織する。アウグストゥスの時代にはこれが国営郵便制度になった。70キロが一日の行程で、12キロに一箇所、馬だけを変えられる交換所があった。
【地図】105
銀のコップの表面に、都市の名称と都市から都市の距離とが記載されている。現在残っている最長はスペインのガデスからローマの2750キロに、平均すれば、26キロごとになんらかの施設があったことがわかる。
地図にも、神々が並存した時代からキリスト教のみへの時代、つまり紀元313年から392年までの共存時代を含む前後の違いがあらわれている。
道路網はローマ帝国を勝者敗者の別なき運命共同体にするのに、最も有効な手段であった。
【水道】
目立つのは地上の姿だが、例えばアッピア水道を例にとると、前兆16.617キロメートル、地上を走るのは89メートルでしかない。敵に破壊されないため、水温の上昇を抑えるため、蒸発をふせぐためにも、地下の坑道を流すほうがよかったのだ。
いずれもインフラ工事に携わるのは軍団兵。そのために属州までも隅々までインフラの整備が進むことになったのだ。一番いい例がアウグストゥス時代のアグリッパである。カエサルに見込まれ、アウグストゥスの右腕として軍を指揮したが、平和の時代には公共事業で腕を振るったのだ。技術者は奴隷150-
水路には「カステルム」と呼ばれる配水のための水貯めがあった。水は公共用、皇帝用、私用の3種に配水され、料金がかかるのは私用からの水道だけ。公共浴場のほとんどは皇帝が建設した公共事業なので、皇帝用の水が使われていた。私用は3割程度。
【医療と教育】
カエサルによって、医療と教育に携わる者には市民権が与えられたということであったが、基地以外には病院というようにインフラの整備は公共事業に入っていない。学校もそうである。ただ、図書館のような研究機関はあった。17歳以上の専門教育がなされたのは、レトリック・スクール修辞学の勉強、つまり弁護士ないし政治家の教育である。序、先例、論点、結論というような優れた弁論の解釈などが中心。しかし、皇帝でこれらの教育機関を卒業したものはいない。
キリスト教の支配が強化されるのと教育制度の公営化は、ともに進んだ。

安全保障が、職と食の基本であった時代、皇帝という軍の最高司令官にその責任が委託された。ローマの通史は軍事史にならざるをえない。そのためにこの巻は特別にそれ以外の側面について、特に街道と水道に多くを割いた。229-231
いまだに、「人間が必要とする」インフラが整備されていない。
経済的に余裕がないからか、インフラ整備を不可欠とする考え方が欠如しているのか、それを実行する強い政治意思がかけているのか、それともそれ以前の「平和」の継続が保証されていないからなのか。231
紹介者 角田尚子
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by eric-blog | 2004-10-29 09:56 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)
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