彼女の「正しい」名前とは何か

55-1(226) 彼女の「正しい」名前とは何か
第三世界のフェミニズムの思想
岡真理、青土社、2000

「ジェンダー・トラブル」も、おもしろくはあったが、何のために読まなければならないか、わからなくなってくる本であったが、これはさらにその傾向が強い。本人も後書きで言うように「ようやく、これら先達たちが拓いてこられた道に辿り着いたにすぎない」ことは否めない。それでも京都大学の助教授になっているのだから、その地位に着くために必要とされるのは、304ページを書くことのできる力なのだと思う。ならば、問われるべきことは「語る側」へのパスポートを手に入れた岡自身はどのような世界に生き、どのようにその場における仮想的カテゴリーとしての「男性中心社会」「父権主義」「植民地主義的制度・態度」などを変革しようとしており、「語られる側」のエンパワメントをはたしているか、なのではないだろうか。
すでに、このような言語化、難解で自分についてほとんど語らない発言を労することで、確実に差異化している存在なのであること。
しかし、岡が行きついている最善の良心的な態度とは済州島4.3事件にからんでのある日本人の、そしてその日本人の発言に対するある在日韓国人の批判、つまり在日の感性を汲み取りきれない自分を、ある友人からの指摘で気づくとともに、済州島になんらかの関わりのある父親を思い起こすことであるようなのだ。
なぜ、いらだつのか。後書きで岡が謝辞を表している人人の非対称性かもしれない。男、男、男、女、女、女、女、男、男、男。出版業界の男・男・男・男。
第三世界の女性の「正しい」名前について思考する人が、男性であっても、その人が足下で何をしているかを批判するとは思うが、「いらだち」のような共感性はないかもしれない。ひとつには、女は自分の戦いしか語れないというところに押し込められるべきではないということ。ひとつには、しかし、「自然の男性化/性の人工化」のように、そしてバンダナ・シーヴァが言うように、スーザン・ジョージが言うように、いまの科学のあり方そのものが問題であるのに、それを問題にせず、それに取り込まれているフェミニズムがありえるのかということである。
ま、いずれにせよ、以下引用です。

30
私たちは、自分が何ものであるかを、・・・本当に知っているのだろうか。パレスチナ人が自分たちをパレスチナ人と名付けるのは暴力ではないのだろうか。(表象と自身のズレを暴力と岡は言っている。)
言説的な暴力の行使によってしか表象されえない。
32
フェミニズムの言説における「女性」もまた、集団的なアイデンティティがそうであるように、「想像の共同体」であるだろう。...大切なことは、私たちがいかに「民族」なるものと同時に「女性」なるものを想像するかであり、そしてそれを再-想像/創造するか、である

56
「第三世界」の経済搾取に対してあからさまな無視を決め込んでいる私たちが、「性器切除」の問題となるとにわかにアフリカ女性の人権に目覚めるのはなぜだろう?
Zizek 1996より「犠牲者に同情を注ぐことは、・・・困っている隣人に対してほどよい距離を保つための手段」「<内>と<外>をわける大分水嶺」
57
Johnson-Odin 1991より「アフリカでは、栄養問題や、非識字率、、、などの問題も女性が生きていく上で中心的な重要性をもっており、、、、女性割礼と同じくらい、、、議論されてほしいと願っている。」
(民族解放が優先され、女性解放は二の次にされた、というのを想起する。どれほど、女性問題の中でのこのようなランキングや優先順位に意味があるのだろうか。)

64
萩原 1991より「ステロタイプで他者を理解することが間違っているのは、、、それが支配だからです。、、、序列ピラミッドの上方にいる者が、そういう位置にいない者に素テロタイプを押し付けるのです。」
65-66
「語られる」ことについて
(このことについては、アイヌのチカップ智恵子さんの「肖像権」裁判が日本でもあったと思うけどなー。なぜ、西洋人が、非西洋人について語る、「旧宗主国」の「文化人類学者」が語ることだけを問題にするかなー。西洋教育階梯の高みにある「ジェンダー研究者」によって「知」の対象として「語られている」女の問題はいいのだろうか?そしてまた、現実を語るのに、なんという不自由な言葉群であることか)

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言葉について、役にたった部分。
shareを分有と訳しているのは、これで2人目かな。13
遂行的=performativeは事実確定的/確認的=constativeに対する言葉。「・・・とわたしは宣言する」というのが遂行的。行為によって事実が発生するもの。しかし、「地球が丸い、とわたしは確認する/わたしは宣言する」というように事実の捉え方を考えれば、すべては遂行的と言える。21 パーフォーマティブについては先の「ジェンダー・トラブル」を参照。

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この論文集を読んで、人権についての3期の発展をまとめておいて本当に良かったと思った。
1. 権力対権利
2. すべての差別は社会的歴史的文化的に形成されており、社会・文化・歴史を言い訳にして差別の再生産に加担することはできない。
3. 保護は主体性の発揮のためにある。

認識があるから言葉があり、言葉なしでは認識は伝達・共有できないのに。なぜ、最初、問題意識として「第三世界」という表現をしたかということ抜きで、いかにその表現が植民地主義的かということを指摘することに意味があるのかわからなーーーーい。わかつことはわかろうとするために行うのであり、そのある局面で「分かつ」言葉を、その全体や実態をさす言葉であるととらえることをしてはならないという教育の普及を前提としなければ、差別はなくならないし、自分が何をどのように「分かち」その分類のどちらに自分がいるのかと認識する意識など育ちはしない。
ここで岡が言う「第三世界」はすべての「社会的弱者」のカテゴリーにも通じることであるはずなのだ。
頼むから、「ステレオタイプのない言葉」や「表象」の事例を上げてくれ。わたしたちの日常の言葉の中に。アラブの女性たちの押し込められている対西洋とのカテゴリー化によるステレオタイプを批判するのであれば。
果たして、ステレオタイプでない理解があるのかすら、わたしは疑う。
問題提起の視線そのものがパターナルに、保護的になり、そのことが対立項となるような言い方も気に触る。「社会的弱者」のカテゴリーは保護や手立てのためにあり、保護は主体性の発揮のためになされるとすれば、カテゴリーなしでわたしたちは何ができるのだろうか。

アリス・ウォーカーの女性割礼にまつわる小説「喜びの秘密」についての批判はよしとしても、この論文集の中での執拗さ(つまり発展しているのでも、新たな視点からでもない、ただただの繰り返しの多さ)には辟易する。小説が発表された時1992年において、アメリカ合州国では、他のアフリカ系女性たちの言説がかきけされるほどにアンチ女性性器切除が幅をきかせていたのだとしても、日本の文脈でのこのしつこさに、意味があるとすれば、それは日本社会の、そして国際協力の分野におけるこの問題についての「無為」あるいは「回避」の後押しでしかないと思うがゆえに、腹立たしい。なぜ、そのことを岡は自らの社会の問題として論じないのか、取り上げないのか。答えを求めるための知的「補助線」が求められているのは、まさしくそこであろうに。
小説などという表現にステレオタイプの不在など、あるのだろうか。
わたしはパフォーマティブなフェミニズムを生きるものとして、そこに「女性性器切除」から逃れたいという人がいれば、手助けする。しかし、それはわたしの「何をおいても」の最優先課題とはなりえない。従って、「生きながら火に焼かれて」の当事者に出会うような場に居合わせたり、自分が何ができるかを自問したり、行動したりという状況には陥りそうにはないのだけれど。
「日本人」女性は、スアドを「救出」するだろうか。脱北者を救う女性たちがいるように、やはり「アラブ」という記号は「西洋」と対置する時に際立つようなのだな。

当事者の不在する「ショアー(ホロコースト)」において誰がそれを語れるのか?

読んだものもあるし、読んでいないものもあるが、当事者からの発言として上げられているものを紹介しておきます。
「裸足のアマン」
「砂漠の女ディリー」
「零度の女」
「敵あるいはフォー」(舌を切り取られたフライデーの代弁を誰がするか)
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by eric-blog | 2004-09-13 12:10 | ■週5プロジェクト04 | Comments(2)
Commented by eric-blog at 2004-09-13 13:10
師匠としての男、議論を練り、触発される男、支えてくれる友人である女、って何よ。ことかな。
先日の研修でも「日本社会の○△□」の後、「日本社会が悪いということでもないんじゃない」と発言する人がおり、無力感にとらわれた。「悪」というよりは「危険」であり、人権尊重文化を阻むものであるのだが。
Commented by gauccarmege at 2015-09-02 10:18 x
I will surely visit back for more –Great job!
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